人間の言葉を借りて

生まれたくなかった
胎内で抵抗した
何度か流産のチャンスがあった
チャンスは薬物の力でつぶされた
その日は”難産”だった
緊急処置の帝王切開で
わたしは生まれた
三年ぶりに二人目の子を得た若い父母の喜びが
わたしには、うとましかった
生まれたくなかった
育ちたくなかった
しかし
順調に育った

或る日
三歳になる兄が
眠っているわたしの顔に
小さな透明のビニールの袋をかぶせた
袋は頭をピッタリ包み
わたしは息が出来なくなった
チャンス到来
忽ち気が遠くなり
わたしは人間でなくなった

わたしの異状に兄は驚き
母のもとへ走った
母が駆けつけ
すべてを察した
青ざめて
ビニールの袋をはずし
わたしを荒々しくゆさぶった
動かなかった
母は電話をかけ、病院に車を飛ばした
母の供述のちぐはぐに
医者は不審を抱いた
乳児がビニールの袋をかぶる筈がない
医者の通報で警官が来た
母は事の次第を正直に語った
語って泣いた
警察の穏便な処置で、兄は罪を免れた
母と兄が罪になることなど、わたしは望まなかった
人間でなくなりさえすればよかったのだから
わたしの望みが叶えられ、人間でなくなった日
わたしは思い出していた
以前、人間だったことを
再度の人間稼業はごめんだと真底思っていたことを
わたしの望みが何処かの神のお耳に入ればいいと
思っていたことを

理由は
今更、人間に話しても仕方がない
陽気な顔をして何度でも人間に生まれたがっている者に
わたしは、ただ、微笑を贈るばかり

わたしの望みが叶えられ、人間でなくなった日
若く優しい父母は泣き
小さな兄は訳もわからず走りまわっていた
わたしは詫び、静かに会釈をして
そこから立ち去って来た
わたしの世界に
わたしと同じ意思たちの住む明るい世界を
人間は信じるでしょうか?

吉野弘
自然渋滞」所収
1989

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