Category archives: Chronology

動物園にて

「おじいちやんは いまごろ
 どこらへんを歩いているんだろうな、
 もう死んでいるのかなあ」
と、遠くにいる四歳の孫娘が考えた時
その時
じいさんはばあさんと
二十年ぶりに動物園に行つて
ゴリラの檻の前に立つていた
「ほら ばあさんや、
 ゴリラという奴は、何かやる前に
 ちやんとやり方を考えるね。えらい奴じや
 のう」
「まあ、ほんとにそうですね。あなたより
 よつぽどえらいようだよ」
二人はとぼとぼと手を握りあつて
満開の桜の花の下をあるいていつた

蔵原伸二郎
岩魚」所収
1955

存在

この世に
あなただけをみる

あなたに照射されている
私だけをみる

ものみな
爽かにほろびつくし
この美しい荒寥のなか
この激しく奔騰する無のなか

矢車がしきりに風を喚んで舞うような
一途な願いで 歌で

己れを失いながらあなたのなかに昇華する

伊藤桂一
「定本・竹の思想」所収
1968

罰当りは生きてゐる

あなたは一人息子を「えらい人」に成らせたかつた
「えらい人」に成らせるには学問をさせなければならなかつた
学問をさせるには金の要る世の中で
肉体よりほかに売るものを持たないあなたは何を売らねばならなかつたか
だのにその子は不良で学校を嫌つた
命令と服従の関係がわからなかつた
先生の有難味といふものがわからなかつた
強ひられることには何でも背中を向けた
学校へは上級生と喧嘩をしに行くのであつた
一から十まであなたに逆らふ手のつけられない「罰当り」だつた
その子はあなたを殴りさへした
——その時その子が物陰で泣いてゐたことをあなたは知つてゐますか
それでもあなたはその因果な罰当りを天地に代へて愛さずにはゐられなかつた

学校を追はれた不良児は当然社会の不良になつた
社会の不良は「えらい人」が何より嫌ひでそいつらに果し状をつきつけた
「善良な社会の風習」に断乎として反抗した
その罰当りがここに生きてゐる
正義とは何かを摑んで自分を曲げずに生き抜かうとする叛逆者の仲間に加はつて
警察へひつぱられたり あつちこつち渡り歩いたり
飢ゑて死んでも負けるかと言つて生き通してゐる

お母さん!
あなたが死んで十年
だがあなたの腹から出てあなたを蹴つた罰当りの一人息子は此の世に頑然と生きてゐます

岡本潤
「罰当りは生きてゐる」所収
1933

無題

私は旅に出よう
私の腸を 松の木にヒツカケて
烏に啄つかせよう
潮風に吹かれなければならない
私はくさりかけてゐる

高橋新吉
「高橋新吉詩集」所収
1952

雫のように

つぼみが
だんだんふくらんできて
パッと
花ひらくとき

雫のように
何か大切なものが
ポタリ と
落ちたのです

杉山平一
青をめざして」所収
2004

雨の秋刀魚

頭痛の酷い昼下がりに
あなたのために
シャツにアイロンをかける
一万円札の皺を伸ばして
さびれた郵便局へと
絵を受け取りにあてどなくあるく
あなたのために
柔らかいこのひざを折る
わたしはわたしで
ひとりのにんげんでいたいのに
嘶くような
あなたの叫びにまたしても負けて
あなたが描いた私の裸体を
頬を染めつつ
寝室の奥まったところに飾る
あなたは今どこで
すきっ腹を抱えながら
くらい川を眺めているのか
おんな一人でしゃにむに
生きてきたわたしの在りようは
蟻の如きものと知り
せめてひかる台所に立ち
季節外れの秋刀魚を丁寧に焼く

葉山美玖
Something」26号より。一部改訂。
2017

空をかついで

肩は
首の付け根から
なだらかにのびて。
肩は
地平線のように
つながって。
人はみんなで
空をかついで
きのうからきょうへと。
子どもよ
おまえのその肩に
おとなたちは
きょうからあしたを移しかえる。
この重たさを
この輝きと暗やみを
あまりにちいさいその肩に。
少しずつ
少しずつ。

石垣りん
略歴」所収
1979

——自叙伝について

いつからか幕があいて
僕が生きはじめてゐた。
僕の頭上には空があり
青瓜よりも青かつた。

ここを日本だとしらぬ前から
やぶれ障子が立つてゐて
日本人の父と母とが
しよんぼり畳に坐つてゐた。

茗荷の子や、蕗のたうがにほふ。
匂ひはくまなくくぐり入り
いちばん遠い、いちばん仄かな
記憶を僕らにつれもどす。

おもへば、生きつづけたものだ。
もはやだいたいわかりきつた
おなじやうな明日ばかりで
大それた過ちも起りさうもない。

いつのまにか、僕にも妻子がゐて
友人、知人、若干にかこまれ
どこの港をすぎたのかも
気にとめぬうちに、月日がすぎた。

そのうち、はこばれてきたところが
こんな寂しい日本国だつた。
はりまぜの汚れ屏風に囲はれて
僕は一人、焼跡で眼をさました。

金子光晴
人間の悲劇」所収
1952

キャラメルクリームのつくりかた

用意するもの、
コンデンスミルク一缶と
アガサ・クリスティ一冊。
ミルクの缶は蓋を開けずに
鍋に入れて、かぶるくらい水を差す。
そのまま火にかけて、文庫本をひらく。
こころおどる殺人事件。
アンドーヴァーで最初の殺人。
犯人不明。手掛りはなし。
ベクスヒル海岸で、チャーストンで
謎の殺人が次々とつづく。
第四の殺人のまえに差し湯する。
湯のなかにかならず
缶が沈んでいるようにする。
ポワロ氏が髭をひねって微笑する。
「誰が何をいうと思う?ヘイスティングス、
嘘さ。
探偵は嘘によって真実を知るのさ」
急転、事件が解決したら
缶を取りだす。
充分にさましてから開ける。
すると!
缶のコンデンスミルクが
見事なキャラメルクリームに変わっている。
ABCのビスケットに
キャラメルクリーム。
アガサ伯母さんの味だ。

長田弘
食卓一期一会」所収
1987

まっくろけの猫が二疋、
なやましいよるの屋根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

萩原朔太郎
月に吠える」所収
1922