——自叙伝について

いつからか幕があいて
僕が生きはじめてゐた。
僕の頭上には空があり
青瓜よりも青かつた。

ここを日本だとしらぬ前から
やぶれ障子が立つてゐて
日本人の父と母とが
しよんぼり畳に坐つてゐた。

茗荷の子や、蕗のたうがにほふ。
匂ひはくまなくくぐり入り
いちばん遠い、いちばん仄かな
記憶を僕らにつれもどす。

おもへば、生きつづけたものだ。
もはやだいたいわかりきつた
おなじやうな明日ばかりで
大それた過ちも起りさうもない。

いつのまにか、僕にも妻子がゐて
友人、知人、若干にかこまれ
どこの港をすぎたのかも
気にとめぬうちに、月日がすぎた。

そのうち、はこばれてきたところが
こんな寂しい日本国だつた。
はりまぜの汚れ屏風に囲はれて
僕は一人、焼跡で眼をさました。

金子光晴
人間の悲劇」所収
1952

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