Category archives: Chronology

夏の終わり

夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落とす静かな翳は
……さよなら……さようなら……
……さよなら……さようなら……
いちいちさう頷く眼差のように
一筋光る街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田の面を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しずかにしずかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
……さよなら……さようなら……
……さよなら……さようなら……
ずつとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる

伊東静雄
「反響」所収
1946

あゝ麗はしい距離、
つねに遠のいてゆく風景……

悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音。

吉田一穂
海の聖母」所収
1926

一八〇秒

男/
男・シャツ/
男・白シャツ・革靴/
男・三五歳・白シャツ・皺・ネクタイ・革靴・艶のない/男・三五歳・前髪・白シャツ・皺・ネクタイ・細縞・革靴・艶のない・鞄/走る・男・三五歳・刺さる・前髪・ながく・まがる・襟・白シャツ・細かい・皺・ゆるむ・ネクタイ・細縞・革靴・艶のない・すりへった・踵・ゆれる・鞄/全速力で・走る・男・三五歳・しみる・汗・刺さる・前髪・眼に・ながく・まがる・黄ばんだ・襟・白シャツ・細かい・皺・ボタン・上から三番目・のびた・糸・先端・ゆるむ・ネクタイ・細縞・取り出す・箱・クロゼット・底で・舗道・蹴る・革靴・艶のない・すりへった・上がる・踵・小石・着地・ゆれる・黒鞄・ひらく/ふられる・腕・赤・点滅・踏み切り・横棒・全速力で・走る・男・三五歳・痛む・背中・しみる・汗・切らない・前髪・刺さる・眼に・ながく・歪んだ・まがる・黄ばんだ・かすかに・襟・白シャツ・細かい・皺・上から三番目・のびた・糸・先端・切れた・落ちる・砕ける・ボタン・ゆるむ・ネクタイ・細縞・取り出す・箱・クリスマスの・去年・クロゼット・底で・別れた・怒りの・舗道・蹴る・革靴・艶のない・すりへった・爪先・震え・ふくらはぎ・上がる・踵・小石・飛び散る・着地・飛び立つ・カラス・ゆれる・黒鞄・ひらく・ころがる・雨傘/食い込む・ストラップ・のばす・ふられる・腕・めくれる・袖・鳴る・点滅・警報・うなり・踏み切り・横棒・降りる・全速力で・走る・男・三五歳・痛む・背中・しみる・汗・切らない・前髪・刺さる・眼に・ながく・想起の・出勤登録・人事の課長・苦情・歪んだ・まがる・黄ばんだ・かすかに・襟・アイロン・所在不明の・押入れ・崩壊した・白シャツ・細かい・皺・上から三番目・のびた・糸・ほころぶ・先端・切れた・落ちる・砕ける・プラスチック・靴の底・ボタン・ふられる・首・息つぎ・ゆるむ・ネクタイ・細縞・取り出す・箱・リボン・青い・クリスマスの・去年・クロゼット・底で・別れた・後悔・怒りの・舗道・蹴る・革靴・艶のない・すりへった・だるい・つまさき・震え・ふくらはぎ・上がる・踵・小石・飛び散る・着地・飛び立つ・カラス・ゆれる・黒鞄・ひらく・ころがる・雨傘/めくれる・袖・点滅・警報・踏み切り・降りる・全速力で・走る・男・三五歳・階段・のぼる・痛む・汗・刺さる・ながく・想起の・苦情・崩壊した・白シャツ・ほころぶ・先端・砕ける・ふられる・息つぎ・ネクタイ・リボン・クリスマスの・別れた・後悔・怒りの・革靴・すりへった・つまさき・震え・ころがる・小石/改札・猫たちの・好奇心の/
一八〇秒/
ドアまでの・閉じていく・距離・朝の/発車する

河野聡子
ToltaのWebサイトより転載
2012

若葉よ来年は海へゆこう

絵本をひらくと、海がひらける。若葉にはまだ、海がわからない。

若葉よ。来年になったら海へゆこう。海はおもちゃでいっぱいだ。

うつくしくてこわれやすい、ガラスでできたその海は
きらきらとして、揺られながら、風琴のようにうたっている。

海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、
若葉も、貝になってあそぶ。

若葉よ。来年になったら海へゆこう。そして、じいちゃんもいっしょに貝になろう。

金子光晴
詩集 若葉のうた」所収
1967

蒼馬を見たり

古里の厩は遠く去つた

花が皆ひらいた月夜
港まで走りつゞけた私であつた

朧な月の光りと赤い放浪記よ
首にぐるぐる白い首巻きをまいて
汽船を恋ひした私だつた。

だけれど……
腕の痛む留置場の窓に
遠い古里の蒼い馬を見た私は
父よ
母よ
元気で生きて下さいと呼ぶ。

忘れかけた風景の中に
しほしほとして歩ゆむ
一匹の蒼馬よ!
おゝ私の視野から
今はあんなにも小さく消へかけた
蒼馬よ!

古里の厩は遠く去つた
そして今は
父の顔
母の顔が
まざまざと浮かんで来る
やつぱり私を愛してくれたのは
古里の風景の中に
細々と生きてゐる老いたる父母と
古ぼけた厩の
老いた蒼馬だつた。

めまぐるしい騒音よみな去れつ!
生長のない廃屋を囲む樹を縫つて
蒼馬と遊ぼうか!
豊かなノスタルヂヤの中に
馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!
私は留置場の窓に
遠い厩の匂ひをかいだ。

林芙美子
蒼馬を見たり」所収
1930

小さいマリの歌

1 微笑

小さいマリよ
おまえは仔兎のように
ぼくの椅子の下に巣をつくったり
栗鼠のようにすばしこく
ぼくの頭の木のうえに駈けのぼったりする
あどけないおまえの声は いつもぼくに
ぼくの持っていない愛情を思い出させる
膝にのって話をせがむマリよ
ぼくが知っているのは おまえが生れる前のことだ
おまえが生れてからのことは
なんでもおまえの方がよく知っている
はてしない空 麦畑 街々
木々 家々 大地
それがどんなふうに
わけへだてのないぼくたちのあいだに
見えない国境をつくっているか
みんな知っているとおりだ
それから大人たちの仕事
きままなぼくの生活
話していいこと いけないこと
太陽に背をむけたそれらのものが
どのようにぼくたちの大地に暗い影を落すのかも
みんな知っているとおりなんだ
おまえの微笑は
雪にとざされたぼくの窓や
椅子のうえで寒さにふるえているぼくの手足を
あたたかい南国の陽ざしのように融かしてくれるから
小さいマリよ
ぼくはただ黙って
いつまでもおまえに向きあっていたいのだよ

2 夢

おまえは小さな手で
ぼくのものでない夢を
たえずぼくの心のなかに組みたてる
これはお山 これは川
それから指で大きな輪をえがいて
ここには海があるの
これはお家 これはお庭 これは樹
ここには犬がつないであるの
そうしておまえは自分のまわりに
ひとつずつ自然を呼びよせて
ぼくと一緒に住もうというのだ
あどけないマリの夢よ
おまえの世界には
沈黙に聴きいる石もなければ
歌わぬ梢
物言わぬ空というものがない
消えさる喜び 永くとどまる悲しみというものがない
これはお茶碗 これはお皿
大きいフライパンをあやつる小さいマリは
ぼくと一緒に暮そうという

3 歌

小さいマリよ
どんなに悲しいことがあっても
ぼくたちの物語を
はじめからやり直し
なんべんもなんべんもやり直して
気むずかしい人たちに聞かせてあげよう
小さいマリよ
さあキスしよう
おまえを高く抱きあげて
どんな恋人たちよりも甘いキスをしよう
まあお髭がいたいわと
おまえが言い
そんならもっと痛くしてやろうと
ぼくが言って
ふたりの運命を
始めからやり直せばいいのだよ

さあゆこう
小さいマリよ
おまえと歩むこの道は
とおくまで草木や花のやさしい言葉で
ぼくたちに語りかけてくるよ
どんなに暗い日がやってきても
太陽の涙から生れてきたぼくたちの
どこまでもつづく愛の歌で
この道を歩いてゆこう
小さいマリよ
さあ歌ってゆこう
よく舌のまわらぬおまえの節廻しにあわせて
大きな声でうたうぼくたちの歌に
みんなじっと耳をすましているのだから
ずっと空に近い野原の
高い梢で一緒に歌っている人たちが
心から喜んでくれるから
さあ歌ってゆこう
小さいマリよ

鮎川信夫
続・鮎川信夫詩集」所収
1965

死なない蛸

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。

萩原朔太郎
宿命」所収
1939

ペットボトル

ほら、ひたいにあてると まだ
すごくつめたい
片腕でからだをもちあげて
おきあがった
背の高い少年、ふみこむこちらを うかがう
まなざし
それならぼくもわかる
ペットボトルにすっと目がいって
ふきだす汗に目をつむる
その一瞬

ぼくらのなかのみずがゆれる
コロラドのモーテルの
あの青いプール
排水溝へとつづく砂のながれも
みずをほしがっていた

アスファルトに手をついて
にじんだ赤い血
それとおなじ赤い血によごれて まったく
べつのひとからうまれる
からだ
全身でみずをほしがるそのからだが
だれよりも腰をおとし
親指の骨で
スケートボードをふみあげる
その一瞬、はるかな
道路がみえる

ふいにぼくは
ここにいないやつのことを
ここにいないからこそ書かなくてはとおもう
さっきまで
肩をぶつけあってたやつらを
背のたかい少年は
ひかりのぐあいでみうしなって
つばをのむ
広大な駐車場をすべりきり
それでも まだ、ひとりなら
たぶん
股間をたしかめる
その一瞬の ふかい青空

ぼくはなにもいうことがない
ひろがりに
ひとはきえていくのに
ひろがるそれをまえにすると
なぜことばがうしなわれてしまうのか
砂ぼこりをしずめるのではない
ただ、むねをひく
雨のにおいがした

肩をうつ
一滴、二滴のことば
それではまったくいいたりぬものを
よけるまもなく、うまれてからこれまで
どしゃぶりにこぼされてしまって
それが、ずっと
過去のほうから
キングストリートをけとばしながら
この一帯を黒くぬらしていく
少年を、少年の母を、さきにかえったやつらを
ぼくのからだを はげしく
ぬらしていく
おもたくへばりつくズボン
なにかがとどく
ちいさな封筒のマーク 木下くん
そんなきがしてかるくふれる
と、おおきな彼の写真
パタゴニアのダイレクトメールだった
ばかみたいな青空
急になまいきに見えた 少年の目
おもいだす
ものごころがつくまえの
雨粒をかぞえることをやめないこころ
ことばの
雨はすがすがしい
そんなこころを、かるくふるって
のみほしたら
ゆっくりほてりが ひいていく

そしてまた、すごい汗だ

岡本啓
グラフィティ」所収
2014

伝説

湖から
蟹が這いあがってくると
わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
山をこえて
市場の
石ころだらけの道に立つ
蟹を食うひともあるのだ

縄につるされ
毛の生えた十本の脚で
空を掻きむしりながら
蟹は銭になり
わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
山をこえて
湖のほとりにかえる

ここは
草も枯れ
風はつめたく
わたくしたちの小屋は灯をともさぬ

くらやみのなかでわたくしたちは
わたくしたちのちちははの思い出を
くりかえし
くりかえし
わたくしたちのこどもにつたえる
わたくしたちのちちははも
わたくしたちのように
この湖の蟹をとらえ
あの山をこえ
ひとにぎりの米と塩をもちかえり
わたくしたちのために
熱いお粥をたいてくれたのだった

わたくしたちはやがてまた
わたくしたちのちちははのように
痩せほそったちいさなからだを
かるく
かるく
湖にすてにゆくだろう
そしてわたくしたちのぬけがらを
蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
むかし
わたくしたちのちちははのぬけがらを
あとかたもなく食ひつくしたように

それはわたくしたちのねがいである

こどもたちが寝いると
わたくしたちは小屋をぬけだし
湖に舟をうかべる
湖の上はうすらあかるく
わたくしたちはふるえながら
やさしく
くるしく
むつびあう

会田綱雄
「鹹湖」所収
1957

縫針

あらゆるものをひきよせてゐるおまへの縫針。夜がある、花がある、電気の光りがある、そして私の幸福が。

おまへの指が縫ひつけるまでに、すでに私はおまへの着物の中にひそむ。
そして、美しく動くおまへの指の運びを後じさりしながら招いてゐる。
ここにゐるよ、ここにゐるよと私は呼ぶ。
おまへの仕事に見惚れながら、おまへに触れながら。

あらゆるものをひきよせてゐるおまへの縫針。
私の目蓋がある、睫毛がある。眼がある、そして私の心臓が。

竹中郁
「署名」所収
1936