Category archives: Chronology

心太を食べる

みぶるいしている心太を
天突きに入れてトロトロと突き出している
暑いから何かに圧倒されていたい
フロイトはね
(どうしてフロイトなの?)
音楽に圧倒されるのを好まないといったのよ
ばかみたいね
感傷的でざんこくな人間だったのね
蒼い顔をしていた
ひやして
冷たくして
(冷たい板間が大好きです)
立膝して海苔をくずす
胡麻をひねる
人差指と親指のあいだの草の実の
ゆえしらない微かな音と匂いに傾いている
圧倒されたいわけ
冷たく酸いものをつるつるっと召しあがれ
汗が引いた
何だかわからない
なやましい感情にかきまわされるが
フロイトほどにはひどくない

財部鳥子
枯草菌の男」所収
1986

呪詛

たえずうたがひ、たえず嘆き、
たえず悶えるこの心を、
むしりとりたいのだ、
飢ゑた鳥の胃袋と、
とりかへてしまひたいのだ。

父は大酒に酔ひつぶれてゐた、
うづ高い青表紙の書庫にこもつて、
母はわびしさに泣いてゐた、
神よ、あの呪はれた受胎の日を、
ならうことならどうにかして下され。

燃えただれたその触手をのべて、
永遠に暗い、永遠に哀しい、
しかも永遠にみだらな、
ここのところを、
焼きとつてくれぬか。

みづからを墜し、
もの皆を墜落に導き、
しかもなほいのりを忘れぬ──。
これは天国への、
これは地獄への隧道だ。

なまぬるい日あたりに、
三白草よ、おごれ、
饐えるまで、腐るまで、
目もくらむするどい悪臭に、
聖なる園をけがしたいのだ。

ゐたたまらなさに歌口をしめして、
今吹き鳴らす野笛のしらべに、

ああ、転調!
すべての転調!

怪しい香をくろ髪に焚きこめて、
この遠慮がちな食慾に、
あらゆる饗宴をゆるさうか、
私の魂よ、
無智になれ、盲目になれ。
地もやぶれよと踊り狂ふ二神、
ああ、消えてはうつり、
うつつては消え、
息する間もなくのべられる真紅の場面、
快楽よ、
かくて私はお前の肉になりたいのだ。

深尾須磨子
「呪詛」所収
1925

I was born

確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

  或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。

──やっぱり I was born なんだね──
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
──I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね──
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
──蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね──
 僕は父を見た。父は続けた。
──友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。つめたい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは──。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
──ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体──

吉野弘
幻・方法」所収
1959

虫の息

家に一匹の秋の虫が住み着いたらしかった。
五日ほど前から、かすかな鈴の音が聞こえてくる。

最初、仕事で原稿を書いていてその音に気がついた。
り り り り り

規則正しく、金の茶碗を叩いているような、そんな音だった。
どこか外から聞こえてくるのだろうと思っていた。

二階で仕事をして、喉が渇いたので台所に水を飲みに来た。
あの音が、なんだか家の中から聞こえるような気がした。

玄関のあたりで、鳴いているようだ。
見つけようとしたけれど、姿は見えなかった。

翌日も、鳴いている。
鳴きながら家の中をゆっくりと移動しているらしい。
その日は風呂場の方で聞こえた。

その翌日は、二階の天井の方から聞こえる。
仕事をしているとすぐ近くで鳴いているのがわかる。
うんと耳を澄ませて、声のする方を探してみた。

窓のカーテンレールに隠れるようにして、
三センチほどの小さな虫がいた。
双眼鏡で眺めてみると、羽をこすりあわせて鳴いている。
り り り り り

昨日あたりから、一階の居間に移動したようだ。
こたつのある居間のどこかで鳴いている。
冬に近くなると一階は寒いので、私は日当たりのよい二階にばかりいる。
猫も帰ってくるなり二階に飛んでいく。二階は夜になっても暖かい。
虫も二階にいればよかったのに、と思った。

今日、居間で一人でテレビを見ながら夕食を食べていると、
あの、虫が、鳴いていた。
今日あたりは、ひどく弱った声で、緩慢にか細く鳴いている。
り  り  り  り  り

めっきり寒くなった。
虫はもうすぐ死ぬのだろうなあ、と思った。
その、虫の鳴き声は、なんだか、切なくて、
私は「虫の息」という言葉を思い出した。
鳴き声は、声という威勢を失って、
確かに「息」のようにか細くなっていた。
り   り   り   り   り

羽を合わせる力もないでいるのだ。

一人で薄暗い和室の居間にいたら、
なんだか急に怖くなった。

いま、この部屋に いるのは 私と
もうすぐ死んでいく 虫だけなのだと思った
そして、私は、虫の息が絶えるのを、こうして見送るのだろうか

とぎれとぎれになっていくその声が
どうしても 耳を離れなくなって 恐ろしくて
私は 二階に上がってベランダに出てみた
外は秋の雨

この雨の下で、どんなに多くの小さな生き物たちが命絶えているのだろう。
海の向こうに、冬が黒いマントを広げて 立っていた。

田口ランディ
オカルト」所収
2001

霜枯れの野に
バッタが飛び歩いている

あいつは宇宙を動かしていた奴だ
黒く錆びた舌で 凍土を食っている

月も太陽も 糞便にして
ヒリ出したのは彼奴だ

菜種の花に 灰が降った
バッタの額に 飛礫が飛んで来た

血潮に滴る眼を開くと
雀が飛んでいる
両足に 全時間をしばりつけて

一つ瞬きすると 全歴史が消える
バッタは 髯のような触覚を顫わしていたが
粉微塵に 放射能にやられた

無数の生涯を 刻々送っている
最も充実した内容で 全歴史が一瞬に経験される
雀は豊饒此の上ない身分である
瞬間々々に 無限の多彩を極めた浮生を囀っている

雀が動くと 大地が燃えはじめる
あいつが一足歩むと 宇宙は消えてゆく

高橋新吉
「高橋新吉詩集」所収
1957

その手は菓子である

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそりとしてしながよく
まるでちひさな青い魚類のやうで
やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない。
ああ その手の上に接吻がしたい。
そつくりと口にあてて喰べてしまひたい
なんといふすつきりとした指先のまるみだらう
指と指との間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ
その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。
かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指
すつぽりとしたまつ白のほそながい指
ぴあのの鍵盤をたたく指
針をもて絹をぬふ仕事の指
愛をもとめる肩によりそひながら
わけても感じやすい皮膚のうへに
かるく爪先をふれ
かるく爪でひつかき
かるくしつかりと、押へつけるやうにする指のはたらき
そのぶるぶると身ぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指
おすましで意地惡のひとさし指
卑怯で快活な小ゆびのいたづら
親指の肥え太つたうつくしさと その暴虐なる野蠻性
ああ そのすべすべと磨きあげたいつぽんの指をおしいただき
すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい。いつまでたつてもしやぶつてゐたい。
その手の甲はわつぷるのふくらみで
その手の指は氷砂糖のつめたい食慾
ああ この食慾
子供のやうに意地のきたない無恥の食慾。

萩原朔太郎
定本青猫」所収
1934

ブブル

ブブル お前は愚かな犬 尻尾をよごして
ブブル けれどもお前の眼
それは二つの湖水のやうだ 私の膝に顔を置いて
ブブル お前と私と 風を聴く

三好達治
「南窗集」所収
1932

おさなご

おもちゃ屋の前を通ると
毬を買ってね
本屋の前を通ると
ごほん買ってね と子供が言う
あとで買ってあげようね
きょうはお銭をもって来なかったから
私の答もきまっている
子供はうなずいてせがみはしない
のぞいて通るだけである
いつも買って貰えないのを知っているから
ゆうがた
ゆうげの仕度のできるまで
晴れた日は子供の手をひき
近くの踏切へ汽車を見にゆく
その往きかえり 通りすがりの店をのぞいて
私を見あげて 子供が言う
毬を買ってね
ごほん買ってね

大木実
路地の井戸」所収
1948

ニセモノガエリ

ソラノオト
からかみつづりの夏至線を
たどるは はかなき相剋花

マダ トオカラズ タダ カゲナラズ
マダ ミエモセズ デモ ホカナラズ

にせもの カタリが 流行します
にせもの マイリが 通行します
にせものにもにたはかなきとしを
としととしとをかたむすびします

マダ ミツカラズ イマ ダケニミツ
シニ ユクモノハ タダ ココニアリ

ゆきさきつげぬはなみちを
びんらんしゃんとはこびます
こえをひそめてさけぶこどもら
あっさくきかいのながいかげから
とびだすひとかげ すぐさらいます

タダ タダチニテ デモ イマカギリ
ツキ ミチヅトモ イマ ダケニスム

ご先祖がえりのふりをした 偽物がえりがはやります
廃らぬものは いつまでも らんらん花を鳴らします
目的地に棲む円環草が ほとりほとりと落ちゆく地点

にせもの カタリが 連行します
にせもの マイリを 押収します
にせものにもにたひとがたりびとを
かるだけのひとも ひとではなくて

ゆきつくさきはタダココダケデ
かえるゆくさきタダココダケデ

偽物がえりの葬列が
はきだす通貨に たかるひとかた
むれるひとびと ゆびさすひとの
うしろのはんぶんあとかたもなく
ひとかたりびとが壊死するゆうべ
ひとひとでなく ときときでなく

カラノオト
にせものつづりの瑕疵線を
たどるは はかなき相剋の、途

水無田気流
現代詩手帖2012年6月号初出
2012

海辺の恋

こぼれ松葉をかきあつめ
をとめのごとき君なりき。
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき。

わらべとをとめよりそひぬ
ただたまゆらの火をかこみ、
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み、

入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか、
海べのこひのはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ。

佐藤春夫
殉情詩集」所収
1921