Category archives: Chronology

パン

パンをつれて、愛犬のパンザをつれて
私は曇り日の海へ行く

パン、脚の短い私のサンチョパンザよ
どうしたんだ、どうしてそんなに嚏をするんだ

パン、これが海だ
海がお前に楽しいか、それとも情けないのか

パン、海と私とは肖てゐるか
肖てゐると思ふなら、もう一度嚏をしてみろ

パンはあちらへ行つた、そして首をふつて嚏をした
木立の中の扶養院から、ラディオの喘息持ちのお談議が聞える

私は崖に立つて、候兵のやうにぼんやりしてゐた
海、古い小さな海よ、人はお前に身を投げる、私はお前を眺めてゐる

追憶は帰つてくるか、雲と雲との間から
恐らくは万事休矣、かうして歌も種切れだ

汽船が滑つてゆく、汽船が流れてゆく
艫を見せて、それは私の帽子のやうだ

私は帽子をま深にする
さあ帰らう、パン

私のサンチョパンザよ、お前のその短い脚で、もつと貴族的に歩くのだ
さうだ首をあげて、さう尻尾もあげて

あわてものの蟹が、運河の水門から滑つて落ちた
その水音が気に入つた、――腹をたてるな、パン、あれが批評だよ

三好達治
測量船」所収
1930

青春の健在

電車が川崎駅にとまる
さわやかな朝の光のふりそそぐホームに
電車からどっと客が降りる
十月の
朝のラッシュアワー
ほかのホームも
ここで降りて学校へ行く中学生や
職場へ出勤する人々でいっぱいだ
むんむんと活気にあふれている
私はこのまま乗って行って病院にはいるのだ
ホームを急ぐ中学生たちはかつての私のように
昔ながらのかばんを肩からかけている
私の中学時代を見るおもいだ
私はこの川崎のコロムビア工場に
学校を出たてに一時つとめたことがある
私の若い日の姿がなつかしくよみがえる
ホームを行く眠そうな青年たちよ
君らはかつての私だ
私の青春そのままの若者たちよ
私の青春がいまホームにあふれているのだ
私は君らに手をさしのべて握手したくなった
なつかしさだけではない
遅刻すまいとブリッジを駆けのぼって行く
若い労働者たちよ
さようなら
君たちともう二度と会えないだろう
私は病院へガンの手術を受けに行くのだ
こうした朝 君たちに会えたことはうれしい
見知らぬ君たちだが
君たちが元気なのがとてもうれしい
青春はいつも健在なのだ
さようなら
もう発車だ 死へともう出発だ
さようなら
青春よ
青春はいつも元気だ
さようなら
私の青春よ

高見順
死の淵より」所収
1964

凝視

郊外を歩いてゐるとき
ふと私は 小川の中に立つ異様の女を見た
ぼろぼろに裂けた着物をきて
裾を露はにかかげ
浅い流れの中にぢつと立つてゐた
彼の女の足許の何かを凝視めてゐるやうに深く首を垂れてゐた

私は更に近づいた時
彼の女の微かな啜り泣の声を聴いた
彼の女は明かに狂人であつたが
しかもその例へやうのない淋しい凝視と嗚咽は
すつかり私の心を暗く囚へてしまつた
私は全ての過去を暴かれた様に狼狽した
彼の女の浅ましく衰へた愛慾の残影は
己に滅えようとしてゐた私の悔恨を
支へ様のない大きな溝の中に流し込んだ

彼の女は恐らく白紙の様な現在の心の面に
その美しい悲しい幻影を描いてゐるのではあるまいか
彼の女は唯 あるが儘の人生を其の薄い網膜の上に写して楽しんでゐるのではなからうか
私は限りなく我意な自分を思つた

自らがそのひとの罪人である様に羞恥を感じた

久しい後に彼の女が首を擡げた時
私はその鈍い雪灯のやうな瞳が
私の過去の悪戯を責めてゐるやうに思つた
彼の女は魅せられた様に 信じられない様に
なじる様に 訴へる様に 私の方を見てゐた
罪を有たないものの到底知ることの出来ない苦痛は私の心を重く圧へつけた
私は堪へ切れずに其処を去つた
併しながら私は未だにそのうるんだ女らしい声音と
おどおどしたその力無い眼の色を忘れることが出来ない

多田不二
「夜の一部」所収
1926

航海を祈る

それだけ言えば分ってくる
船について知っているひとつの言葉
安全なる航海を祈る

その言葉で分ってくる
その船が何処から来たのか分らなくても
何処へ行くのか分ってくる

寄辺のない不安な大洋の中に
誰もが去り果てた暗いくらがりの中に
船と船とが交しあうひとつの言葉
安全なる航海を祈る

それを呪文のように唱えていると
するとあなたが分ってくる
あなたが何処から来たのか分らなくても
何処へ行くのか分ってくる
あなたを醜く憎んでいた人は分らなくても
あなたを朝焼けのくれないの極みのように愛している
ひとりの人が分ってくる

あるいは荒れた茨の茂みの中の
一羽のつぐみが分ってくる
削られたこげ茶色の山肌の
巨熊のかなしみが分ってくる

白い一抹の航跡を残して
船と船とが消えてゆく時
遠くひとすじに知らせ合う
たったひとつの言葉
安全なる航海を祈る

村上昭夫
動物哀歌」所収
1967

殺戮の殿堂

人人よ心して歩み入れよ、
静かに湛へられた悲痛な魂の
夢を光を
かき擾すことなく魚のように歩めよ。
この遊就館のなかの砲弾の破片や
世界各國と日本とのあらゆる大砲や小銃、
鈍重にして残忍な微笑は
何物の手でも温めることも柔げることも出来ずに
その天性を時代より時代へ
場面より場面へ転転として血みどろに転び果てて、
さながら運命の洞窟に止まったやうに
疑然と動かずに居る。
私は又、古くからの名匠の鍛へた刀剣の数数や
見事な甲冑や敵の分捕品の他に、
明治の戦史が生んだ数多い将軍の肖像が
壁間に列んでいるのを見る。
遠い死の圏外から
彩色された美美しい軍服と厳しい顔は、
蛇のぬけ殻のやうに力なく飾られて光る。
私は又手足を失って皇后陛下から義手義足を賜はったといふ士卒の
小形の写真が無数に並んでいるのを見る、
その人人は今どうしている?
そして戦争はどんな影響をその家族に与へたらう?
ただ御國の為に戦へよ
命を鵠毛よりも軽しとせよ、と
ああ出征より戦場へ困苦へ・・・・・
そして故郷からの手紙、陣中の無聊、罪悪、
戦友の最後、敵陣の奪取、泥のやうな疲労・・・・・
それらの血と涙と歓喜との限りない経験の展開よ、埋没よ、
温かい家庭の団欒の、若い妻、老いた親、なつかしい兄弟姉妹と幼児、
私は此の士卒達の背景としてそれらを思ふ。
そして見ざる溜散弾も
轟きつつ空に吼えつつ何物をも弾ね飛ばした、
止みがたい人類の欲求の
永遠に血みどろに聞こえくる世界の勝ち鬨よ、硝煙の匂ひよ、
進軍喇叭よ、
おお殺戮の殿堂に
あらゆる傷つける魂は折りかさなりて、
静かな冬の日の空気は死のやうに澄んでいる
そして何事もない。

白鳥省吾
「大地の愛」所収
1919

戦争はよくない

俺は殺されることが
嫌ひだから
人殺しに反対する、
従って戦争に反対する、
自分の殺されることの
好きな人間、
自分の愛するものゝ
殺されることの好きな人間、
かゝる人間のみ戦争を
讃美することが出来る。
その他の人間は
戦争に反対する。
他人は殺されてもいゝと云ふ人間は
自分は殺されてもいゝと云ふ人間だ。
人間が人間を殺していゝと云ふことは
決してあり得ない。
だから自分は戦争に反対する。
戦争はよくないものだ。
このことを本当に知らないものよ、
お前は戦争で
殺されることを
甘受出来るか。
想像力のよわいものよ。
戦争はよしなくならないものにせよ、
俺は戦争に反対する。
戦争をよきものと断じて思ふことは出来ない。
 
武者小路実篤
「種蒔く人」初出
1921

序詩

思ひ出は首すぢの赤い蛍の
午後のおぼつかない触覚のやうに、
ふうわりと青みを帯びた
光るとも見えぬ光?

あるひはほのかな穀物の花か、
落穂ひろひの小唄か、
暖かい酒倉の南で
ひきむしる鳩の毛の白いほめき?

音色ならば笛の類、
蟾蜍の啼く
医師の薬のなつかしい晩、
薄らあかりに吹いているハーモニカ。

匂ならば天鵞絨、
骨牌の女王の眼、
道化たピエローの面の
なにかしらさみしい感じ。

放埓の日のやうにつらからず、
熱病のあかるい痛みもないやうで
それでゐて暮春のやうにやはらかい
思ひ出か、ただし、わが秋の中古伝説(レヂェンド)?

北原白秋
思ひ出」所収
1911

接吻の後に

「眠りたまふや」。
「否」といふ。

皐月、
花さく、
日なかごろ。

湖べの草に、
日の下に、
「眼閉じ死なむ」と
君こたふ。

三木露風
廃園」所収
1909

母国語

外国に半年いたあいだ
詩を書きたいと
一度も思わなかった
わたしはわたしを忘れて
歩きまわっていた
なぜ詩を書かないのかとたずねられて
わたしはいつも答えることができなかった。
 
日本に帰って来ると
しばらくして
詩を書かずにいられなくなった
わたしには今
ようやく詩を書かずに歩けた
半年間のことがわかる。
わたしは母国語のなかに
また帰ってきたのだ。
 
母国語ということばのなかには
母と国と言語がある
母と国と言語から
切れていたと自分に言いきかせた半年間
わたしは傷つくことなく
現実のなかを歩いていた。
わたしには 詩を書く必要は
ほとんどなかった。
 
四月にパウル・ツェランが
セーヌ川に投身自殺をしたが、
ユダヤ人だったこの詩人のその行為が、
わたしにはわかる気がする。
詩とは悲しいものだ
詩とは国語を正すものだと言われるが
わたしにとってはそうではない
わたしは母国語で日々傷を負う
わたしは毎夜 もう一つの母国語へと
出発しなければならない
それがわたしに詩を書かせ わたしをなおも存在させる。

飯島耕一
「ゴヤのファースト・ネームは」所収
1974

手に手に棒きれをもち石をもちおまえたちは
おれをとりかこんでしまつた
はじめはじようだんだとおれは思つたくらいだ
一つの石はいきなりとんでおれの目玉をぐしやりつぶし
つづいて石だ石だ石だ石だ
ぐしやりとまた
おれの胸はやられ
口からは血が

  あのいいにおいのするくさむらへ
  かえつてゆきとぐろをまき
  ひなたの音楽をゆつくりきき

匍つて逃げる
だめかもしれない
逃すな逃すな棒きれでぐいとくびを押さえ
口あいたまんま
舌はさわぎ

  くさむらくさむら
  まつくらぎらぎらひかつている
  かみなりの晩
  縞子さんとあいびきしたね縞子さん
  縞子さんはあのとき甘えておれに
 
がしやり頭をとうとうやられ

  おれに石を投げたおまえたちよ
  けれどもおれには立ちあがつておまえたちに石を投げかえすことができない

血と泥
ひんまがつて
おれはおまえたちのなすがままだ

    ああ夕やけ雲が
    あんなにきれいおまえたちの肩の上に
    風は凪いだようだな
    さあ棒きれと残りの石をおれの死骸のそばにほうりだして
    おまえたちは帰れ

鳥見迅彦
「けものみち」所収
1955