Category archives: Chronology

良い朝

今朝ぼくは快い眠りからの目覚めに
雨あがりの野道を歩いて来て
なぜかその透きとほる緑に触れ、その匂に胸ふくらまし
目にいっぱい涙をためて
いろんな人たちの事を思った。
私の知って来た数かずの姿
記憶の表にふれたすべての心を
ひとつひとつ祝福したい微笑みで思ひ浮べ
人ほど良いものは無いのだと思ひ
やっぱり此の世は良い所だと思って
すももの匂に
風邪気味の鼻をつまらし
この緑ののびる朝の目覚めの善良さを
いつまでも無くすまいと考へてゐた。

伊藤整
「雪明りの路」所収
1926

白い花

アッツの酷寒は
私らの想像のむこうにある。
アッツの悪天候は
私らの想像のさらにむこうにある。
ツンドラに
みじかい春がきて
草が萌え
ヒメエゾコザクラの花がさき
その五弁の白に見入って
妻と子や
故郷の思いを
君はひそめていた。
やがて十倍の敵に突入し
兵として
心のこりなくたたかいつくしたと
私はかたくそう思う。
君の名を誰もしらない。
私は十一月になって君のことを知った。
君の区民葬の日であった。

秋山清
「白い花」所収
1944

シリア沙漠の少年

シリア砂漠のなかで、羚羊の群れといっしょに生活していた裸体の少年が発見されたと新聞は報じ、その写真を掲げていた。蓬髪の横顔はなぜか冷たく、時速50マイルを走るという美しい双脚をもつ姿態はふしぎに悲しかった。知るべきでないものを知り、見るべきでないものを見たような、その時の私の戸惑いはいったいどこからきたものであろうか。
その後飢えかかった老人を見たり、あるいは心傲れる高名な芸術家に会ったりしている時など、私はふとどこか遠くに、その少年の眼を感じることがある。シリア砂漠の一点を起点とし、羚羊の生態をトレイスし、ゆるやかに泉をまわり、まっすぐに星にまで伸びたその少年の持つ運命の無双の美しさは、言いかえれば、その運命の描いた純粋絵画的曲線の清冽さは、そんな時いつも、なべて世の人間を一様に不幸に見せるふしぎな悲しみをひたすら放射しているのであった。

井上靖
北国」所収
1958
 

回転鞦韆

子供たち! よく廻つてるね
君等のあとを追ふて
木の葉が鳥のやうに蹤いてゆく

その遠心力で
子供たち!
君等の無邪気を撒きちらすんだね
それでこの樹の多い公園は
明るくさはやかにさざめいてゐるんだね

竹中郁
「黄蜂と花粉」所収
1926

遠景

草原の上に腰を下して
幼い少女が
髪の毛を風になびかせながら
むしんに絵を描いていた。
私はそっと近よって
のぞいて見たが
やたらに青いものをぬりつけているばかりで
何をかいているのか皆目わからなかった。
そこで私はたずねて見た。
──どこを描いているの?
少女はにっこりと微笑して答えてくれた。
──ずっと向こうの山と空よ。
だがやっぱり
私にはとてもわからない
ただやたらに青いばかりの絵であった。

木山捷平
木山捷平全詩集」所収
1968

土をほっていました

庭のまんなかに 大きな深い穴を掘ります

弟はものを言いません
わたくしも黙っています

なぜほるの
ともきかなければ
なにのために掘るのか
考えてもみませんでした

弟の額に汗がにじんでいます
わたくしの掌には豆が出来ました

けれど
わたくしと弟は土を掘っています

父を埋めるためかもしれません

弟とわたくしは土を掘ることを
やめようとはしません

やめるのが こわいのかもしれません

虫が鳴いています

小松郁子
「鴉猫」所収
1979

手おくれの男

おでんやでは隅でよろけている椅子にすわる
するとにわかにそれはぼくだけの椅子になる
小さな所有から腰をあげると
ぼくにはいつも居住の不安定さがはっきりする

ものごとがおわってからはじめてぼくは気づくらしい
たとえば一日を吐瀉してしまった貨車のように
ぼくは夜のなかに夜よりもくろくうずくまりながら
かすかにのこる牛や陶器のにおいをさぐりあてている

あやまっておとした鏡には
みじんにくぎられた空がうつる
そこでようやくひとつらなりの天を見上げるしまつだ

―─愛と健康もうしなってはじめて切ないが

死をすら
ぼくは迎えてしまっているのではなかろうか
つねにおそってくる予感がぼくには記憶とまぎらわしい
盃をしずかに乾す
するとゆらゆらういている模様がすっとさだまる
そんなふうに死が見えているのは
これはたしかにぼくには手おくれの出来事ではあるまいか

大野新
「階段」所収
1958

五月

流れていく緑
あの中をゆっくり歩きたいと
窓の外を見ている

赤ん坊を抱いた人が乗ってきて
隣りに座る
ふっくらした赤ん坊が
澄んだ眼でこちらをしきりに見る
口元がほころぶ
赤ん坊も笑う
肩がほぐれる

あやそうとすると
赤ん坊の視線はそのままわたしに注がれて
わたしの面に真っ直ぐに注がれて
貼りつく

わたしの中で
葉がわずかにゆれ
枝々が震える
光を通さない葉の重なり

わたしの木を
赤ん坊がじっと見ている

小網恵子
「野のひかり」所収
2016

なんでも一番

凄い!
こいつはまったくたまらない
せっかくきたのに
摩天楼もみえぬ
なにがなんだか五里霧中
その筈!
アメリカはなんでも一番
霧もロンドンより深い
嘘だと思う?
職業安定所へ
行って
試してみろ!
紐育では
霧を
シャベルで
運んでいる!

関根弘
「絵の宿題」所収
1953

水のこころ

水は つかめません
水は すくうのです
指をぴったりつけて
そおっと 大切に──

水は つかめません
水は つつむのです
二つの手の中に
そおっと 大切に──

水のこころ も
人のこころ も

高田敏子
1989