Category archives: Chronology

気鬱

母よ、あなたの胎内に僕がゐたとき、あなたを駭かせたといふ近隣の火災が、あのときのおどろきが僕にはまだ残つてゐる。(そんな古いことを語るあなたの記憶のなかに溶込まうとした僕ももう昔の僕になつてしまつたが)母よ、地上に生き残つていつも脅やかされとほしてゐるこの心臓には、なにかやはりただならぬ気鬱が波打つてゐる。

原民喜
原民喜詩集」所収
1951
 

時差

私は知らぬ間に
池のほとりに立っていた

そして いつのまにか
海辺の白い砂の上で足を濡らしていた

私が 池のほとりに立ったのは
いつの事であるか
自分ではわからないのである
たしかに あじさいの花がそこに
咲いていたことだけは覚えている

うす暗く かき曇った空の下で
その花を私は見ていた

そして 潮に足を濡らしている私は
焼き付くような太陽の光りが降りそそいでいる海の遠くを
今は眺めている

その池は どこにあったのかも私は思い出せない
私の頭の中の記憶の森の中にだけあるのかもしれない

けれども たしかに私は立っていたのだ
その池のほとりに
そして今は 海辺の砂浜を歩いているのだ

この不可思議な 現実の明るさと暗さの対比に
私の思弁は耐えられそうにもないのだ

高橋新吉
「高橋新吉詩集」所収
1952

ライ麦の話

一本のライ麦の話をしよう。
一本のライ麦は、一粒のタネから芽を出して、日の光りと雨と、風にふかれてそだつ。ライ麦を生き生きとそだてるのは、土 深くのびる根。一本のライ麦の根は、ぜんぶをつなげば600キロにおよび、根はさらに、1400万本もの細い根に分かれ、毛根の数というと、あわせてじつ に140億本。みえない根のおどろくべき力にささえられて、はじめてたった一本のライ麦がそだつ。
何のために?
ただ、ゆたかに刈り取られるために。

長田弘
心の中にもっている問題」所収
1990

群集の中を求めて歩く

私はいつも都會をもとめる
都會のにぎやかな群集の中に居るのをもとめる
群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ。
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ。
ああ 春の日のたそがれどき
都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
おほきな群集の中にもまれてゆくのは樂しいことだ。
みよ この群集のながれてゆくありさまを
浪は浪の上にかさなり
浪はかずかぎりなき日影をつくり、日影はゆるぎつつひろがりすすむ。
人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと、みなそこの日影に消えてあとかたもない。
ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影
たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは涙ぐましい。
いま春の日のたそがれどき
群集の列は建築と建築との軒をおよいで
どこへどうしてながれて行かうとするのだらう。
私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影。
ただよふ無心の浪のながれ
ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい
もまれて行きたい。

萩原朔太郎
「定本青猫」所収
1934

悲しい月夜

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰氣くさい聲をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる。
波止場のくらい石垣で。

いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
靑白いふしあはせの犬よ。

萩原朔太郎
「月に吠える」所収
1917

誕生祭

砂川原のまんなかの沼が夕焼け雲を映してゐたが。
もうむらさきの靄もたちこめ。
金盥の月がのぼつた。

蒲やおもだかが沼をふちどり。
その茎や葉や穂のびろうどには重なりあふほどの蛍たちが。
蛍イルミネーションがせはしくせはしく明滅する。
げんごろうの背中には水すましが。鯰のひげには光る藻が。

この時。
とくさの笛が鳴り渡つた。
するといきなり。沼のおもては蛙の顔で充満し。
幾重もの円輪をつくつてなんか厳かにしんとしてゐる。
螢がさつとあかりを消し。
あたりいちめん闇が沸き。
とくさの笛がふたたび高く鳴り渡ると。
《悠悠延延たり一万年のはての祝祭》の合唱が蒲もゆれゆれ轟きわたる。

  たちあがったのはごびろだらうか。
  それともぐりまだらうかケルケだらうか。
  合唱のすんだ明滅のなかに。
  ひときは高くかやつり草にもたれかかり。
  ばらあばらあと太い呪文を唱へてから。

   全われわれの誕生の。
   全われわれのよろこびの。
   今宵は今年のたつたひと宵。
   全われわれの胸は音たて。
   全われわれの瞳はひかり。
   全われわれの未来を祝し。
   全われわれは……。

飲めや歌へだ。ともうじやぼじやぼじやぼじやぼのひかりの渦。
泥鰌はきらつとはねあがり。
無数無数の螢はながれもつれあふ。

りーりー りりる りりる りつふつふつふ
りーりー りりる りりる りつふつふつふ
   りりんふ ふけんふ
   ふけんく けけつけ
けくつく けくつく けんさりりをる
けくつく けくつく けんさりりをる
    びいだらら びいだらら
    びんびん びがんく
    びいだらら びいだらら
    びんびん びがんく
びがんく びがんく がつがつがりりがりりき
びがんく びがんく がつがつがりりがりりき
   がりりき きくつく がつがつがりりき
   がりりき きくつく くつくく ぐぐぐ
 きくつく くくつく くつくく ぐぐぐ
      ぐぐぐぐ ぐぐんく
      ぐぐぐぐ ぐぐんく
ぐるるつ ぐるるつ いいいいいいいいいいいいいいいいい
ぐるるつ ぐるるつ いいいいいいいいいいいいいいいいい
   があんびやん があんびやん
     われらのゆめは
     よあけのあのいろ
     われらのうたは

ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ

草野心平
定本蛙」所収
1948

つけもののおもし

つけものの おもしは
あれは なに してるんだ

あそんでるようで
はたらいてるようで

おこってるようで
わらってるようで

すわってるようで
ねころんでいるようで

ねぼけてるようで
りきんでるようで

こっちむきのようで
あっちむきのようで

おじいのようで
おばあのようで

つけものの おもしは
あれは なんだ

まどみちお
てんぷらぴりぴり」所収
1968

燈台

      一

そらのふかさをのぞいてはいけない。
そらのふかさには、
神さまたちがめじろおししてゐる。

飴のやうなエーテルにただよふ、
天使の腋毛。
鷹のぬけ毛。

青銅の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤。

そらのふかさをみつめてはいけない。
その眼はひかりでやきつぶされる。

そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

そらにさからふものへの
刑罰だ。

信心ふかいたましひだけがのぼる
そらのまんなかにつつたつた。
いつぽんのしろい蝋燭。
――燈台。

      二

それこそは天の燈守。海のみちしるべ。
(こころのまづしいものは、福なるかな。)
包茎。
禿頭のソクラテス。
薔薇の花のにほひを焚きこめる朝燉の、燈台の白堊にそうて辷りながら、おいらはそのまはりを一巡りする。めやにだらけなこの眼が、はるばるといただきをながめる。

神……三位一体。愛。不滅の真理。それら至上のことばの苗床。ながれる瑠璃のなかの、一滴の乳。

神さまたちの咳や、いきぎれが手にとるやうにきこえるふかさで、
燈台はたゞよひ、

燈台は、耳のやうにそよぐ

      三

こころをうつす明鏡だといふそらをかつては、忌みおそれ、
――神はゐない。
と、おろかにも放言した。
それだのにいまこの身辺の、神のいましめのきびしいことはどうだ。 うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。 おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すゝみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。
……………………。
……………………。

つぶて、翼、唾、弾丸、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
神は下界をみおろしてゐる。
かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
――それだ。そいつだ。そいつを曳づりおろすんだ。

だが、おいらたち、おもひあがつた神の冒涜者、自由を求めるもののうへに、たちまち、冥罰はくだつた。
雷鳴。
いや、いや、それは、
燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
ひつつこい蝿ども。
威嚇するやうに雁行し、
つめたい歯をむきだしてひるがへる

一つ
一つ
神託をのせた
五台の水上爆撃機。

金子光晴
」所収
1935

母という字を書いてごらんなさい

母という字を書いてごらんなさい
やさしいように見えて むずかしい字です
格好のとれない字です
やせすぎたり 太りすぎたり ゆがんだり
泣きくずれたり…笑ってしまったり
お母さんにはないしょですが
ほんとうです

サトウハチロー
おかあさん」所収
1961

エスカレーター


エスカレーターがめずらしかったころ
ぞうりをぬいで
白い足袋すがたになり
きぜんとして
エスカレーターのなかへ消えていった
おばさんをみたことがあります

ぞうりはぬぎすててあったように
記憶しています
でも、そんなことはないでしょうね
ぞうりをしっかり手にもって
暗いエスカレーター上の人となり
ななめうえの世界へ
すがたを消したのにちがいありません

エスカレーターがめずらしかったころ
それはたいてい暗いところにありました
とくにフロアーから
フロアーへ
くぐりぬけるときは
まっくらになります
あの恐さをいまでも忘れることができません

エスカレーター教育ということばがあります
知っていますか
エスカレーターには
くだりもあるのですよ


エスカレーターは
やがて終点に来ます
われわれの身をのせているてっぱんが
いちまいいちまい
フロアーにすいこまれてゆきます
ふと
人生の「終点」を思うのです

いつまでもあのてっぱんにのっていると
どうなりますか
われわれの身は
フロアーのすきまにすいこまれて
うらがわ
知らない世界へ行ってしまうのかも知れません

エスカレーターの夢を
見たことはありませんか
らせん状になっていることもあれば
おどりばで
くるりとむきをかえて
こちらへ向かってくることもあります
「おどりば」って
人生を感じませんか

エスカレーターのてっぱんは
ほんとうのことをいうと
機械のうらがわをくぐって
また「出発点」にでてくるのですね

藤井貞和
ピューリファイ!」所収
1984