Category archives: Chronology

黒い風琴

おるがんをお弾きなさい 女のひとよ
あなたは黒い着物をきて
おるがんの前に坐りなさい
あなたの指はおるがんを這ふのです
かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。

だれがそこで唱つてゐるの
だれがそこでしんみりと聴いてゐるの
ああこのまつ黒な憂鬱の闇のなかで
べつたりと壁にすひついて
おそろしい巨大の風琴を弾くのはだれですか
宗教のはげしい感情 そのふるへ
けいれんするぱいぷおるがん れくれえむ!
お祈りなさい 病気のひとよ
おそろしいことはない おそろしい時間はないのです
お弾きなさい おるがんを
やさしく とうえんに しめやかに
大雪のふりつむときの松葉のやうに
あかるい光彩をなげかけてお弾きなさい
お弾きなさい おるがんを
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。

ああ まつくろのながい着物をきて
しぜんに感情のしづまるまで
あなたはおほきな黒い風琴をお弾きなさい
おそろしい暗闇の壁の中で
あなたは熱心に身をなげかける
あなた!
ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ。

萩原朔太郎
青猫」所収
1923

買って一年も経たない腕時計が止まった。
蓋を開けてみると 胡麻粒ほどの豹が発芽していた。
動物を飼う気は毛頭ない。かと言って潰してしまうに忍びないので取り出してミルクなどやってみる。
すると たちまち猫くらいの大きさになってしまった。
あわてて動物園に電話すると
「あなたは猛獣を飼う必要がありますね。思い切って飼ってみることです。」
と言って切れた。

人ほどの大きさになった今では すっかりおとなしくなり
「やっぱり路地ものは粘りが違うね。」
などと言いながら里芋をつついている。
これでは猛獣を飼った甲斐が無い と ほっとしながらも少し不満だ。
近頃また時計の調子がおかしい。

伊与部恭子
「日はゆるやかに」所収
1997

薄っ原

おまえは勝手に死んだ。
おまえの仕事を
くさすこともできない。
おれは徘徊して世間のなかにとりのこされた。
今日までの長い秋。
薄っ原の武蔵野を
腹立たしく歩き疲れて
日が暮れた。
あくせく働き、生きねばならぬ。
あくせく生きる。
何故にだ。
そんなこと知るか。
おまえは反対し、おれは反論する。
くらくなった道を
村はずれの
酒を売る店にはいって1ぱい飲んだ。
気みじかに酔って、たがいに結論をせきたて
首肯せず、同意せず。
口をあけて炎のように酒臭い。
突き出すように外に出れば
薄く低く、くろい富士。
白くゆれる薄っ原がひろびろとあった。
郊外電車に乗ってあの居酒屋に行かねばならぬ。
死んでしまったおまえのように
たずねようもなくなった薄っ原。
ずしっと東京の
建込んだ家並の向う。
幾年も幾年もたってからあの富士が見えたのだ。
竣工したばかりの駅の
コンクリートの腹立たしく高いブリッジから。

秋山清
季節の雑話」所収
1978

西瓜畑

昨日まで
ごろごろころがつていた 西瓜畑に
今日は
何にもない
未知の人に盗まれたのだ

原つぱと空ばかりがあつた
白い雲が往つたり来たりして
西瓜を探している

一人の若い女がやつてきた
女は西瓜のことなど知りはしない
充実した腰をふりながら
のぼせた顔をして
すたすたと 未知の世界へ行つた

やがて女も消えた
原つぱがあつて その上に空があつた

蔵原伸二郎
岩魚」所収
1955

砲塁

破片は一つに寄り添はうとしてゐた
亀裂はいま微笑まうとしてゐた
砲身は起き上つて
ふたたび砲架に坐らうとしてゐた
みんな儚い原形を夢みてゐた
ひと風ごとに砂に埋れて行つた
見えない海
候鳥の閃き

丸山薫
帆・ランプ・鷗」所収
1932

姿見の中に私が立っている。
ぽつんと
ちいさい島。
だれからも離れて。

私は知つている
島の歴史。
島の寸法。
ウェストにバストにヒップ。
四季おりおりの装い。
さえずる鳥。
かくれた泉。
花のにおい。

私は
私の島に住む。
開墾し、築き上げ。
けれど
この島について
知りつくすことはできない。
永住することもできない。

姿見の中でじっと見つめる
私ーーはるかな島。

石垣りん
表札など」所収
1968

川明り

石の階段が水面に向って落ち込んでいた。満潮の時は階段の半分が水に没し、干潮の時は小さい貝殻と藻をつけた最下段が水面に現れた。ある夕方、そこで手を洗っている時、石鹼がふいに手から離れた。石鹼は生きもののように尾鰭を振って水の中を泳ぎ、あっという間に深処に落ち込んでいって姿を消した。あとには、もうどんなことがあっても再び手の中には戻らぬといった喪失感があった。これは幼時の出来事だが、それ以後、私はこのように完全に物を喪ったことはない。川明りがいかなる明るさとも違って、悲劇の終幕が持つ明るさであることを知ったのもこの時だ。

井上靖
運河」所収
1967

出合い

砂のトンネルを
掘っていって
暗い穴の行きつまりが
不意にくずれて
キラリとさしこむ
光のなかに
手と手がふれあった
そんな出合いだった
きみとわたし

杉山平一
ぜぴゅろす」所収
1977

ジャムをつくる

イチゴのジャムでもいいし、
黒すぐりのジャムでもいいな。
ニンジンのジャムやリンゴのジャム、
三色スミレのジャムなんかもいいな。

わたしが眠りの森の精だったら、
もちろんネムリグサのジャム。
もし赤ずきんちゃんだったら、
オオカミのジャムをつくりたいな。

だけど、数字の一杯はいった
算数のジャムなんかもいいな。
そしたら算数も好きになるとおもうな。
いろんなジャムをつくれたらいいな。

「わたし」というジャムもつくりたいな。
楽しいことやいやなこと、ぜんぶを
きれいなおろし金できれいにおろして
そして、ハチミツですっかり煮つめて。

長田弘
食卓一期一会」所収
1987

理髪店

土用に入る
散髪屋が欅の木の下で仕事をする
サアボンの匂ひが村一杯に流れる
真桑瓜のやうな頭にニッケルの鋏がトンボのやうにとまる

北園克衛
夏の手紙」所収
1937