てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。
安西冬衛
「軍艦茉莉」所収
1929
私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……
夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中にし入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空気を憎まうか?
繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。
富永太郎
「富永太郎詩集」所収
1924
雪のたんぼのあぜみちを
ぞろぞろあるく烏なり
雪のたんぼに身を折りて
二声鳴けるからすなり
雪のたんぼに首を垂れ
雪をついばむ烏なり
雪のたんぼに首をあげ
あたり見まはす烏なり
雪のたんぼの雪の上
よちよちあるくからすなり
雪のたんぼを行きつくし
雪をついばむからすなり
たんぼの雪の高みにて
口をひらきしからすなり
たんぼの雪にくちばしを
じつとうづめしからすなり
雪のたんぼのかれ畦に
ぴよんと飛びたるからすなり
雪のたんぼをかぢとりて
ゆるやかに飛ぶからすなり
雪のたんぼをつぎつぎに
西へ飛びたつ烏なり
雪のたんぼに残されて
脚をひらきしからすなり
西にとび行くからすらは
あたかもごまのごとくなり
宮沢賢治
「文語詩未定稿」所収
1933
○○を露出した恋人の顔——月経の日に
「便所」の中は百鬼夜中だ
強 された時のやうに
●●憂欝な薔薇の
ヂーンと開き放しになつてしまつた日だ!
俺ハ春ノ日ヲ墓場カラ出テ来タ
ピストルと金貨のオモチヤ\ 太 銭!
金貨 金貨 金貨 金貨 金貨=| ==ダ!
軌道を外れさうなアブナイ/ 陽 ツ!
銭だ! みいんな銭だ!
一杯ガマ口につめこんである銭ぢやないか!
太陽の光りだつて銭で買へる時代だ!
ゼニヲ モツテヰナイモノハ
ニンゲンデ ナインダ
女も正義も――銭だ!
血〳〵火〳〵死〳〵赤い赤い赤い
も も も マツ赤ナ銭ナンダ!
——太陽形の銭が膏薬の代りにハリついてゐる局部から——
腐敗した血が流れてゐる
金よ 本よ 酒よ 歌よ 女よ
——世の中は重い荷物だ しよつて起てない荷物だ
厄介な邪魔な荷物だネ
萩原恭次郎
「死刑宣告」所収
1925
殺到した群衆!
闇の底に泥靴は鳴つた!
●●二階へ!
――――道路は争議団の
職工の手と旗が渦まいてゐる!
扉の /―――ピストルの発射があつた!
内部では/
ドヲツ!
CCCCCCCCCC―――群集の叫號!
ボギー列車は巨大な胴体をもつて中央停車場へ走つた!
● 赤
● 灯
不安なレール―――┐
└―――音響!
【窓】―窓●窓●窓●窓
窓 ●
●窓
●窓
鉛貨よりも青つ白い空気●●流動する空気
戦慄する動脉
突走する血液
●斧!
VAG WNG
●●●●●●●●●●●Eiiiiii----EEii
Eiiiiii~~~~~~~~CEiiiii
Eii●●●●
╲ ╱ド・ド・ド・ド・ド・●●
╲ ╱ 首●
╲╱ RRRRRRRR
開いた手!VVVVVVV
足!●●露出された蒼黒い< | 臓 腑 |
――壁へ! | 血液┐ | |
――戸棚へ! | ┌たつ上ね跳へ上天┘ | |
└靴 |
EiiiiiiiiiiiVAG.WNG●●●AA!ア!ワ!
●●●断崖
楷子段
濁音の急速なる破滅!
血をふくんで蒼ざめた恐怖!
~~~~~~刑事課の自動車は走つた!
ァ!
ア!
ア!
ウ ワ ハ!
剣付鉄砲の兵士
駆け出した警官
●●ベルの音響
崩れる群集——自動車、自動車、自動車
十字街の時計は
~~~~~~~~~~赤い指針で一時二十七分!
BWO BVVDC
群集●群集●群集●群集……群集●●●●●●
萩原恭次郎
「死刑宣告」所収
1925
鳴らない鐘のあることを
知らずにゐた日が幸せか。
知つたこの日が幸せか。
引けども鳴らぬ鐘ならば
いつそ引かずにおいたもの。
竹久夢二
1920
死んだ人なんかゐないんだ。
どこかへ行けば、きつといいことはある。
夏になつたら、それは花が咲いたらといふことだ、高原を林深く行かう。もう母もなく、おまへもなく。つつじや石榴の花びらを踏んで。ちようどついこの間、落葉を踏んだやうにして。
林の奥には、そこで世界がなくなるところがあるものだ。そこまで歩かう。それは麓をめぐつて山をこえた向うかも知れない。誰にも見えない。
僕はいろいろな笑い声や泣き声をもう一度思い出すだらう。それからほんとうに叱られたことのなかつたことを。僕はそのあと大きなまちがひをするだろう。今までのまちがひがそのためにすつかり消える。
人は誰でもがいつもよい大人になるとは限らないのだ。美しかつたすべてを花びらに埋めつくして、霧に溶けて。
さようなら。
立原道造
1939
幼馴染の体は石鹸の匂ひがぷんぷんする
石鹸の匂ひのやうに このわかい男にも
もう生活が染みこんでゐるのであらう
鏡に映つてゆれる
木橋と濁つた水と
彼の顔と──(頤のところの小さい疵はあの時の喧嘩のあとだ)
金がなくなつて またかへつて来た男の悲しみを
彼は器用に剃りあげる
昨日 川から腐つてあがつた水死人の話をしながら
ああ僕の瞼のうらで
昔のままの気橋がゆれる
濁つた水が流れる──二十年の歳月が・・・寂しい怒りのやうに
木下夕爾
1965
一
人よ未練があるうちに
最後のキスをしてしまえ
最後のキスに咲く花は
赤い焔のばらの花
ばらの焔をかき分けて
三十二枚の歯が笑う
人よ未練があるうちに
最後のキスをしてしまえ
二
最後のキスの夕まぐれ
孔雀は空を飛びまわり
恋の入日の隈どりに
金糸銀糸を投げかける
希くは恋人よ
高嶺の空に現れて
ものすごいほどつづけよう
恋の最後の偉大なキスを
三
最後のキスが済んだなら
君はあちらへ行きたまえ
私はこちらの坂道を
小鳥のように飛び下りよう
遠い浮世に鐘は鳴り
長い袂に月は照る
小径よつづけどこまでも
少女ごころが泣いていく
四
か弱いまでに ほのぼのと
宇宙は私を明るくし
二足 三足 夢のなか
肩に さくらの花が散る
熱い涙を胸に呑み
短い命投げ飛ばし
酔えば情思は甘いかな
耽美の星がちらちらと
高群逸枝
「放浪者の死」所収
1921
ソノ時オレハ歩イテヰタ ソノ時
外套ハ枝ニ吊ラレテアツタカ 白樺ノヂツニ白イ
ソレダケガケワシイ 冬ノマン中デ 野ツ原デ
ソレガ如何シタ ソレデ如何シタトオレハ吠エタ
暗クナリ暗クナツテ 黒イ頭巾カラ舌ヲダシテ
ヤタラ 羽搏イテヰル不明ノ顔々 ソレハ目ニ見エナイ狂気カラ転落スル 鴉ト時間ト アトハ
サガレンノ青褪メタ肋骨ト ソノ時 オレハヒドク
凶ヤナ笑ヒデアツタラウ ソシテ 泥炭デアルカ
馬デアルカ 地面ニ掘ツクリ返サレルモノハ 君モシル ワヅカニ一点ノ黒イモノダ
風ニハ沿海州ノ錆ビ蝕サル気配ガツヨク浸ミコンデ
野ツ原ノ涯ハ監獄ダ 歪ンダ屋根ノ 下ハ重ク 鉄柵ノ海ニホトンド何モ見エナイ
絡ンデル薪ノヤウナ手ト サラニソノ下ノ顔ト 大キナ苦痛ノ割レ目デアツタ
苦痛ニヤラレ ヤガテ霙トナル冷タイ風ニ晒サレテ
アラユル地点カラ標的ニサレタオレダ
アノ強暴ナ羽搏キ ソレガ最後ノ幻覚デアツタラウカ
弾創ハスデニ弾創トシテ生キテユクノカ
オレノ肉体ヲ塗抹スル ソレガ悪徳ノ展望デアツタカ
アア 夢ノイツサイノ後退スル中ニ トホク烽火ノアガル 嬰児ノ天ニアガル
タダヨフ無限ノ反抗ノ中ニ
ソノ時オレハ歩イテヰタ
ソノ時オレハ歯ヲ剥キダシテヰタ
愛情ニカカルコトナク ビ漫スル怖ロシイ痴呆ノ底ニ
オレノヤリキレナイ
イツサイノ中ニ オレハ見タ
悪シキ感傷トレイタン無頼ノ生活ヲ
アゴヲシヤクルヒトリノ囚人 ソノオレヲ視ル嗤ヒヲ
スベテ痩セタ肉体ノ影ニ潜ンデルモノ
ツネニサビシイ悪ノ起源ニホカナラヌソレラヲ
イカナル真理モ 風物モ ソノ他ナニガ近寄ルモノゾ
今トナツテ オレハ堕チユク海ノ動静ヲ知ルノダ
逸見猶吉
1946