誰もが指の先の棘を持て余しているのです
僕は少しのためらいもなく僕の内部で嘘の日蝕を許してみせています
影は何の約束もせずにとても真っ黒い影を追っています
春の石ころが春の石ころに蹴られている時です 初蝶になじられています
この時です 僕は必死に僕の内臓を歩き続けています この時です
ああ鳥の影が鳥を追って笑い続けています
その先の沼の中に見つけたことのない海があります
僕は指の中の棘を気にしています 静かに息をこらして
じっと見つめているうちに刃はずっと鋭くなります
昨日はくるみの木の梢の先が刺さっていたからです
一昨日は不穏な曇り空が刺さってきたからです
その前の晩は大きな猫の夢が指の内部で破裂したからです
ところで僕は坂道の途上にいます 上るほどにどんどんと痛みます
あるいは痛まないのです
指の先で思想を磨く棘を どうしようもないままに
ゆるやかな坂を行けば 折れ曲がった枝が落ちています
拾い上げると犬の声が耳を汚しています 鮮やかな草原で枯れてゆく
さるすべりの木と影と風とを思い出しているのは僕の脾臓であります
僕の指の中の棘はしだいに麻痺してくるのです 僕の指の中で
すると僕の指の中がしだいに麻痺してくるのです 僕の指の中で
僕はここに居るが僕はここには居ないのです
僕はゆるがない激痛の指先であるが 僕は少しも痛まないのです
僕は怖ろしいほどの現在ですが 僕は静謐な過去の比喩なのであります
ここまで生きてきた時間の内部で交わしてきた
絶対に破ることのできない約束を直立させる黄色い鉄塔が
僕の指の中にあります
僕の今日のなかで宇宙は尖り続けます
見知らぬ意味が さらに先へと国道を折り曲げていくときに
光り輝く黄色い小指が僕の人さし指の中で真っすぐに立っているのです
魚群は 群れを失くしながら静かな青空の理由を知らないのです
雲雀が無風の明日の上で大きくけんけん跳びをしているから
指紋の中で渦巻いている縄文時代の記憶を呼び覚ますと
0点の答案の上の黄色いボールペンが僕の指の中にあるのです
春の小海老の大群が桃色に染め上がっていくうちに
幼い日の空っぽのゲタ箱の中で青い時間が
澄み切ってゆくのを従兄弟と十姉妹はどうやって知ったのでしょうか
いくら踏んでも御喋りしているのは足の裏と何億もの影法師たち
眼帯の裏にあるのは霧の中の津波です 輝かしい孔雀に頬寄せて
内なる若葉の季節の反感にむせび泣けば たどりつくのは初夏の破約です
無人のブランコが世界を坐らせて背中を押しています
誰も訪れない集会所の鉄の扉の傷をどうしようもない
正午の庭先の黄色い柿の木は僕の指の中にあるのですから
黄色い電信柱なども みんな僕の指の中にあるのですから
ところで僕は 棘はどうするのでありますか
どうしたって 抜けないのです
指の中の激しい無痛あるいは無感覚の痛ましさ
僕はかけがえのない何かを信じています
ならば棘を抜こうとするのは止したほうがいいのです
ああ何という清潔な春の坂道なのでしょう
坂を上っていくほどに尖る指の中の棘があるのです
新しい時の前触れであるのです
僕はひどく指の中の棘を気にしているからであります
坂の下へと伸びていく僕の影はこのようにも
僕の魂の奥で新しい棘になっていきます いくのです
これを抜いて下さいよ これを抜かないで下さいよ
僕は傷ましい指先を濡らして
坂道で息を止めて初めての蝶を追っている
春の残酷な悪魔であります
雲の隙間から洩れる陽光をひどく呪っています
その小さな羽に山河の季節の輝きを見つけてしまい
驚いています ほら
僕の脳みそに鋭い風が突き刺さるのです
これが僕の愛のただなかにある
春の雷の兆しそのものなのかもしれないのです
和合亮一
「廃炉詩篇」所収
2010