Category archives: 今を生きる 現代詩の世界

黄色い翅

脈拍をおしはかりながら

心臓がゆっくりとはばたき始めた。

私が驚いた隙に心臓は脈を速め、

ひといきに舞い上がる。

振り仰げば、それは一匹の蝶の姿をしていた。

鱗粉をまとって黄色に輝く翅、

黒々と目立つ複眼。

口もとには細い管が端整なうずを巻いていた。

 

「十九年も一緒だったのに、自分の心臓が蝶とは気づかなかった」

蝶は羽ばたきの速度をゆるめ、私の鼻先で触角をかしげる。

血がみなぎっていたはずの左胸に手を当てると、

そこは冷たい空洞と化し、恐ろしいほどに寡黙だった。

まつげの奥から蝶を見つめて、まばたきで話をしたい。まばたきは、はばたきと同じで、よろこぶ翅の所作だから、蝶は私のまつげが気に入ったよう。

(蜜を口いっぱいに含みながら、わたしたちは花々をあとにする。わたしたちがいないとき、花は咲かない、咲いてはならない)

 

口先を研ぎ、蝶はしたたかに蜜を吸い上げる。

花から飛び立つごとに、その影を大きくして。

やがて蝶の航路が起伏を帯び、拍子をとりはじめる。

私の鼓動のしらべだろうか、

からだのそとで脈を奏でる蝶のかげが濃い。

左胸をひらいてみせると

蝶は待ちわびていたように身をひるがえし、

左胸へ舞い降りた。

蜜があたたかく染みわたれば

花の香に包まれて、唇がゆるむ。

鼓動と共に

私の口からことばがこぼれ出る。

 

内から響き始める拍動に

黄色い翅が舞い立ち、

連なっていく。

 

文月悠光

屋根よりも深々と」所収

2013

美しい穂先

雨があがりました

薄日が

拡散する午後です

お母様、

ちょっとそこまで

散歩に行きましょうか

公園の手前の

美術館で

絵を眺めましょうか

それから

お喋りしましょうか

アスファルトに揺らぐ

わたしたちの影

どうみても

親子なのですから

ちょっとそこまで

散歩に行きましょうか

 

美しい穂先のように

凛、としている

あなたと

笑いながら

生きていきたいのです

次の秋には

おそらで魚が泳ぐのです

それを

一緒に

仰ぎましょうね

少しの甘いお菓子と

お茶を用意して

ちょっとそこまで

散歩に行きましょうね

 

雨があがりました

しゃんしゃんと水滴をはじく

美しい穂先

あなたがいるかぎり

わたしはいつまでも

ここに居たいと思うのです

それは

お母様が

美しい穂先という

名前のとおり

凛、としているから

泣きたくなるほど

好きになっていくのです

 

三角みづ紀

カナシヤル」所収

2006

八尾の萩原朔太郎、一九三六年夏

 昭和十一年八月二十一日。あなたは従兄の病気見舞いのため大阪八尾の萩原家を訪れたところだ。栄次さんは重篤。少 年期から青年期にかけて心の支えであり文学上の師でもあったこの従兄がいなければ今の自分はなかった、とあなたは思う。医学の道を断念し、熊本、岡山、大 阪、東京での六年もの浪人生活の末、失意のうちに帰郷した青春時の残像が次々と脳裏を走る(竹、竹、竹……)。あの頃、ドストエフスキーを教えてくれたの も栄次さんだった(一粒の麦もし死なずば……)。詩作の苦悩を訴えたのも、成功の予感を告げたのも、処女詩集の献辞を捧げたのも、すべて栄次さんに対して だった。彼は今もあなたを「朔ちゃん」と呼ぶ。

 

 この時あなたは、すでに七冊の詩集をもつ堂々たる詩壇の人物。一昨年に出した詩集は、自他ともに一番弟子と認める 詩人から手厳しい批評を受けたが、一方では新しい理解者をもたらした。昨年は初の小説を、この春には念願の定本詩集も出した。若い詩人たちに敬われ大手雑 誌の「詩壇時評」の担当者でもある。最近、ある詩人があなたの「抒情精神」の脆さ危うさを批判する辛辣な評論を発表したが、なんら反論もせず見過ごすくら いの余裕はすでに生れている(数年後その詩人の不安は的中することになるのだが)。

 

 先ほどあいさつに出た小学生は栄次さんの長男で八尾萩原医院の後継者。この少年が六十年以上も後に、あなたのマン ドリン演奏のことや、親族皆でくり出した温泉旅行のことを書くことになる(*)とは、あなたは夢にも思わない。「たいそう情感を籠めた弾きかた」と、少年 が感じた楽曲は何? 酒が入ると時折弾いた古賀メロディの一節?(まぼろしの影を慕いて……)少年が目撃しそこねたという宴席で、あなたは従兄の病をしば し忘れることができたでしょうか。著名人としての自意識が少しは働いたのでしょうか。色紙などしたためて(広瀬川白く流れたり……)。つい先日、父の墓を 訪れて「過失を父も許せかし」と歌ったあなたは、たしかに半世紀を生きてきた。「父よ わが不幸を許せかし」とは「不孝」の誤り? それとも本気で「わが 不幸」を悔いていた? 「父は永遠に悲壮である」と書いたあなたは、亡父に自らを重ねていたのでしょうか。

 

 朔太郎さん。あなたが従兄を亡くし「文学界賞」を受け「詩歌懇話会」の役員となり「日本浪漫派」同人となるこの年 のことを、ぼくはいずれ詳しく書きたいと思っています。残り少ない歳月の中であなたが最後にたどり着いた詩境(それは昭和十四年刊行の詩集『宿命』に示さ れることになるのですが)の出発点が、大阪八尾のこの夏にあるのではという、さして根拠のない直感にこだわってみたいと思うのです。この頃のあなたに特別 な興味を抱くのはぼくだけではない、と思われてしかたがないのです。五十路のあなたはすでに(栄次さんと共に)冥府をさまよっていたのかもしれません。

 

 (*)萩原隆『朔太郎の背中』深夜叢書社

 

山田兼士

微光と煙」所収

2009

春と棘

誰もが指の先の棘を持て余しているのです

僕は少しのためらいもなく僕の内部で嘘の日蝕を許してみせています

影は何の約束もせずにとても真っ黒い影を追っています

春の石ころが春の石ころに蹴られている時です 初蝶になじられています

この時です 僕は必死に僕の内臓を歩き続けています この時です

ああ鳥の影が鳥を追って笑い続けています

その先の沼の中に見つけたことのない海があります

僕は指の中の棘を気にしています 静かに息をこらして

じっと見つめているうちに刃はずっと鋭くなります

昨日はくるみの木の梢の先が刺さっていたからです

一昨日は不穏な曇り空が刺さってきたからです

その前の晩は大きな猫の夢が指の内部で破裂したからです

 

ところで僕は坂道の途上にいます 上るほどにどんどんと痛みます

あるいは痛まないのです

指の先で思想を磨く棘を どうしようもないままに

ゆるやかな坂を行けば 折れ曲がった枝が落ちています

拾い上げると犬の声が耳を汚しています 鮮やかな草原で枯れてゆく

さるすべりの木と影と風とを思い出しているのは僕の脾臓であります

 

僕の指の中の棘はしだいに麻痺してくるのです 僕の指の中で

すると僕の指の中がしだいに麻痺してくるのです 僕の指の中で

僕はここに居るが僕はここには居ないのです

僕はゆるがない激痛の指先であるが 僕は少しも痛まないのです

僕は怖ろしいほどの現在ですが 僕は静謐な過去の比喩なのであります

 

ここまで生きてきた時間の内部で交わしてきた

絶対に破ることのできない約束を直立させる黄色い鉄塔が

僕の指の中にあります

僕の今日のなかで宇宙は尖り続けます

見知らぬ意味が さらに先へと国道を折り曲げていくときに

光り輝く黄色い小指が僕の人さし指の中で真っすぐに立っているのです

 

魚群は 群れを失くしながら静かな青空の理由を知らないのです

雲雀が無風の明日の上で大きくけんけん跳びをしているから

指紋の中で渦巻いている縄文時代の記憶を呼び覚ますと

0点の答案の上の黄色いボールペンが僕の指の中にあるのです

春の小海老の大群が桃色に染め上がっていくうちに

幼い日の空っぽのゲタ箱の中で青い時間が

澄み切ってゆくのを従兄弟と十姉妹はどうやって知ったのでしょうか

 

いくら踏んでも御喋りしているのは足の裏と何億もの影法師たち

眼帯の裏にあるのは霧の中の津波です 輝かしい孔雀に頬寄せて

内なる若葉の季節の反感にむせび泣けば たどりつくのは初夏の破約です

無人のブランコが世界を坐らせて背中を押しています

誰も訪れない集会所の鉄の扉の傷をどうしようもない

正午の庭先の黄色い柿の木は僕の指の中にあるのですから

黄色い電信柱なども みんな僕の指の中にあるのですから

 

ところで僕は 棘はどうするのでありますか

どうしたって 抜けないのです

指の中の激しい無痛あるいは無感覚の痛ましさ

僕はかけがえのない何かを信じています

ならば棘を抜こうとするのは止したほうがいいのです

 

ああ何という清潔な春の坂道なのでしょう

坂を上っていくほどに尖る指の中の棘があるのです

新しい時の前触れであるのです

僕はひどく指の中の棘を気にしているからであります

坂の下へと伸びていく僕の影はこのようにも

僕の魂の奥で新しい棘になっていきます いくのです

これを抜いて下さいよ これを抜かないで下さいよ

 

僕は傷ましい指先を濡らして

坂道で息を止めて初めての蝶を追っている

春の残酷な悪魔であります

雲の隙間から洩れる陽光をひどく呪っています

その小さな羽に山河の季節の輝きを見つけてしまい

驚いています ほら

僕の脳みそに鋭い風が突き刺さるのです

これが僕の愛のただなかにある

春の雷の兆しそのものなのかもしれないのです

 

和合亮一

廃炉詩篇」所収

2010

鳥の意思、それは静かに

時間がないと

あなたの声がして

水色のひかりが

瞬き続けるのが見えた

 

深淵を覗き込もうとする無数の眼を

ひたすらかき分けて進む

子どものような眼で

誰も知らない街へ会いにゆきたい

 

わたしたちは違うが故に平等であると

思うのだけれど

その意識はほんとうか

誰もが理想を隠し持っていて

そのことは驚くにはあたらない

 

一本の線から

たちまち拡がってゆく概念が

わたしを怯えさせ

そして支え続けている

地平に燃え拡がってゆくのだ

静かに 簡潔に

意思となるだろう前提を秘めて

遠く

 

静かな瞬きは

やがて白く大きな鳥に変わり

我々を乗せて

ずっと淡くけぶる水平線の向こうまで

飛んでゆくのだ

 

宮岡絵美

鳥の意思、それは静かに」所収

2012

住んでる人しか知らない道

多分、住んでる人しか知らないだろう、

その道、

詩を書こうと思って、その道を選んだ。

 

その辺りに住んでいて、そこを歩いている人には、

説明するまでもないが、

知らない人には、説明の仕様もない、

ありふれた道。

東大阪の

近大から上小阪、中小阪、下小阪へ通じている

家々の間を緩やかに蛇行した細い道。

多分、昔からある道。

 

夏も終わる夕方、近大前で濱田君と別れた後、自転車を押す池田君と

わたしは話をしながら、並んで歩いた。

二人が並んで歩くと、

擦れ違う人はいくらか身を避ける格好になる。

こちらも、そうする。

 

おばあさんが

家の前に吊り下げ並べた幾つもの鉢植えの花に如雨露で水をやっていた。

少年が

戸口で犬の頭をごしごし撫で、犬は尾を振り切るほどに振っていた。

おばあさんの唐草模様のワンピースが、いいなあ。

少年のやさしく力を入れた手元が、いいなあ。

犬の尾っぽ。

そんな感じ。

 

それにしても、地べたにしゃがんだ少女は、

道ばたの石の間の雑草の茂みに、手を入れて何を探していたのだろう。

池田君は、古いパソコンを使っていて、それに合う

「5インチのフロッピーは、もう、売ってませんよ」

といい、わたしの頭には「発語」という単語が引っかかっていた。

先ほど、授業で、

「詩の本質は、発語の共有だ」といった。

何に接して、言葉が生まれてくるか。

「問題は、その発語の主体にある」と。

心を向けているもの、心が受け止めるイメージ。

それで、

「発語は決まる」が、

その「発語」を読者と共有できるかできないか。

「もう、売ってませんよ」と、池田君は言うけど。

 

詩集は売ってない。

生活者は現代詩を読まない。

現代詩は大学で講義されて、

見たこともないその言葉の姿に学生たちは驚く。

で、

詩を書く人は結構な数だが、余り読まない。

多くは詩に無知だから。

詩に無知だからと言って、どうってこともない。

現代詩は日常を地割れさせる。

大衆から遠ざけられる。

その言葉が言葉の在処の深みにあるから、

深く潜れる者にしか知られない。

 

この「わたし」が「発語」を求めて接しているところは、

発生してくる言葉が秘めた深み。

その辺りに住んでいる人しか歩かない道を、

住んでいるのではないわたしは歩いている。

おばあさんの夕日に透けたワンピース。

住んでいる人には見えないワンピース。

花が枯れてはいけないと、おばあさん、

如雨露から迸り光る水。

犬の頭をごしごし擦る少年の手元。

犬は嬉しがり、少年は更に撫でる。

彼だって、明日になれば、そのしたことを忘れてしまうだろう。

小さなことだが、

わたしは、その彼らの姿を大切に記憶する。

当人も他人も忘れてしまう姿を留めたいとは思いながら、

でも、わたしもいつかは忘れてしまう。

小さなことだ。

でも、生きてる。

そこで、言葉。

言葉になり変わる。

わたしは言葉になり変わる。

万感を込めて、言葉になり変わる。

道ばたの草のような言葉になり変わる。

いつか少女が、そこに素手を差し入れて探し出してくれる。

 

書かれた言葉が読まれないのは辛い。

言葉に、

求めに応じる力がないからか。

言葉に、

求めて行く心がないからか。

 

辛いからと、早まった結論をしてはいけない。

人は、心に生きている人を失えば悲しむ。

人は存在の消失を悲しむ。

悲しむ心は無くならない。

しかし、先ずは、何事でも、心の中に存在しなければ、

失われたことにも気がつかない。

気がつかなければ、悲しむこともない。

ここだ。

存在への対し方、それが問題。

如雨露で水を掛けるおばあさんの姿は、

通りすがりの人には、見えない。

犬の頭を撫でる少年の手元は、目を引かない。

不透明性が覆っている。

都市生活者の意識の不透明性。

人の死よりも、葬式が幅を利かす不透明性。

住んでいる人しか知らない道を、

顔を見知っていなければ、互いの姿を見ないで行き交う。

 

不透明性の中で存在を明示する語法を工夫しなければ。

一つは、不快で過激な曖昧を実現する語法。

また一つは、不透明を透徹する語法。

語法というのは、物事の関係を改める言葉遣いのことです。

でも、これはかなり厄介。

先ずは、人との関係を改めなければならないから。

いろいろな先達が、そんな風にやってきた。

「そんな風」の風を、この道で感じた。

住んでいる人しか知らない道を、

そこに住んでいないわたしは、

若い池田君のコンピュータの話に耳傾けながら、

歩いた。

確かに、歩いた。

右足をちょっとびっこ引いて。

 

道の終わりの駅近くの不定に広がった区画に来て、

京間六畳一間のアパートに帰るという池田君に、

手を振って分かれた。

池田君は、角からいきなり出てきた自動車を身軽に避けて、

腰を上げ、ペダルを踏み下して走り去った。

 

鈴木志郎康

詩の電子図書室」所収

1998