Category archives: Chronology

海浜独唱

ひとりあつき涙をたれ
海のなぎさにうづくまる
なにゆゑの涙ぞ青さ波のむれ
よせきたりわが額をぬらす
みよや濡れたる砂にうつり出づ
わがみじめなる影をいだき去り
抱きさる波、波、哀しき波
このながき渚にあるはわれひとり
ああわれのみひとり
海の青きに流れ入るごとし

室生犀星
抒情小曲集」所収
1918

路傍の梅

 少女あり、友が宅にて梅の実をたべしにあまりにうまかりしかば、そのたねを持ち帰り、わが家の垣根に埋めおきたり。少女は旅人が立ち寄る小さき茶屋の娘なりき、年経てその家倒れ、家ありし辺りは草深き野と変わりぬ。されど路傍なる梅の老木のみはますます栄えて年々、花咲き、うまき実を結べば、道ゆく旅客らはちぎりて食い、その渇きし喉をうるおしけり。されどたれありて、この梅をここにまきし少女のこの世にありしや否やを知らず。

国木田独歩
武蔵野」所収
1898

矢を射る者

俺の放つ矢を見よ。
第一のはしくぢつた、
第二の矢もしくぢつた、
第三の矢もまたしくじつた。
第四、第五の矢もしくじつた
だが笑ふな。
いつまでもしくぢつて許りはゐない。
今度こそ、
今度こそと
十年余り
毎日、毎日
矢を射つた。
まだ本物ではないにしろ
たまにはあたりだした
見よ
今度の大きな矢こそ
人類の心の真たゞなかを
射あてゝみせる
そしてぬけない矢を
俺の放つ矢を見よ。

武者小路実篤
武者小路実篤全集第11巻「詩千八百」所収
1976

戦争

義眼の中にダイアモンドを入れて貰ったとて、何になろう。苔の生えた肋骨に勲章を懸けたとて、それが何になろう。

腸詰をぶら下げた巨大な頭を粉砕しなければならぬ。腸詰をぶら下げた巨大な頭は粉砕しなければならぬ。
その骨灰を掌の上でタンポポのように吹き飛ばすのは、いつの日であろう。

北川冬彦
「戦争」所収
1929

黒い蝙蝠

わたしの憂鬱は羽ばたきながら
ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。
ああなんといふ幻覺だらう
とりとめもない怠惰な日和が さびしい涙をながしてゐる。
もう追憶の船は港をさり
やさしい戀人の捲毛もさらさらに乾いてしまつた
草場に昆蟲のひげはふるへて
季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。
ああ私はなにも見ない。
せめては片戀の娘たちよ
おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。

萩原朔太郎
定本青猫」所収
1934

幻の家

料理人が青空を握る。四本の指あとがついて、次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる空の看守。日光が駆け出すのを見る。
たれも住んでないからつぽの白い家。
人々の長い夢はこの家のまはりを幾重にもとりまいては花瓣のやうに衰へてゐた。
死が徐ろに私の指にすがりつく。夜の殻を一枚づつとつてゐる。
この家は遠い世界の遠い思ひ出へと華麗な道が続いてゐる。

左川ちか
「左川ちか詩集」所収
1911

みづいろの風よ

かぜよ、
松林をぬけてくる 五月の風よ、
うすみどりの風よ、
そよかぜよ、そよかぜよ、ねむりの風よ、
わたしの髪を なよなよとする風よ、
わたしの手を わたしの足を
そして夢におぼれるわたしの心を
みづいろの ひかりのなかに 覚まさせる風よ、
かなしみとさびしさを
ひとつひとつに消してゆく風よ、
やはらかい うまれたばかりの銀色の風よ、
かぜよ、かぜよ、
かろくうづまく さやさやとした海辺の風よ、
風はおまへの手のやうに しろく つめたく
薔薇の花びらのかげのやうに ふくよかに
ゆれてゐる ゆれてゐる、
わたしの あはいまどろみのうへに。

大手拓次
「藍色の蟇」所収
1936

ひき蛙

お母さん
もし私が醜怪なひき蛙だったなら
あなたならどうします

おお 恋人ならば
たちまち目をまわしてしまう
燃えるように見つめてくれた目を
恐怖とにくしみにかえて
千里も遠くに去ってしまう

もしもまた妻ならば
子を残して家に帰ってしまう
なぜかというと
その子も私と同じひき蛙なのだから

でもお母さん
あなたならどうします

私がひき蛙だったなら
ひき蛙よりも
もっとみにくいいきものだったなら
きらわれるまむしだったなら
つられたあんこうのぶざまだったなら
もしもあなたに
それが私であることを告げたなら

村上昭夫
動物哀歌」所収
1968

晩き日の夕べに

大きな大きなめぐりが用意されてゐるが
だれにもそれとは気づかれない
空にも 雲にも うつろふ花らにも
もう心はひかれ誘はれなくなつた

夕やみの淡い色に身を沈めても
それがこころよさとはもう言はない
啼いてすぎる小鳥の一日も
とほい物語と唄を教へるばかり

しるべもなくて来た道に
道のほとりに なにをならつて
私らは立ちつくすのであらう

私らの夢はどこにめぐるのであらう
ひそかに しかしいたいたしく
その日も あの日も賢いしづかさに?

立原道造
萱草に寄す」所収
1937

天井裏の男

ひしやげた屋根の下に暮らす俺達の心は
みんなひねくれなものだよ
この灰色の六畳間を
俺はあつちから! こつちへ
何回同じことを繰り返したことであらう
見ろ
こんなに成つてしまつた
さゝくれ立つたすり切れた
じめじめと陰鬱の涙のこもつた
薄汚ない古畳を

その部屋の真ん中に
『望み』といふ碌でもない屑綿を
どつさり詰め込んだ
向ふ見ずの乱暴者の
煎餅蒲団の反撥を
じつと尻の下に押さへつける仕事もあんまり
楽な仕事ではない

傷だらけの机の上の
偽善者の出しや張屋の
真鍮の豆時計と一日にらみあひ
俺の頭の髪に一本でも白髪の多くなりますやうに
一日も早く地球が冷却して行きますやうに
この善人が速に地獄に墜ちますやうに
俺はお祈りして居るのだ……

小熊秀雄
「小熊秀雄全集2初期詩篇」所収
1940