二人ある日はようもなき
銀のやんまも飛び去らず。
君の歩みて去りしとき
銀のやんまもまた去りぬ。
銀のやんまのろくでなし。
北原白秋
1911
雨の中に馬がたっている
一頭二頭仔馬をまじえた馬の群が 雨の中にたっている
雨は蕭々と降っている
馬は草を食べている
尻尾も背中も鬣も ぐっしょり濡れそぼって
彼らは草をたべている
あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじを垂れてたっている
雨は蕭々と降っている
山は煙をあげている
中獄の頂から うすら黄ろい 重っ苦しい噴煙が濛々とあがっている
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけじめもなしにつづいている
馬は草を食べている
草千里浜のとある丘の
雨にあらわれた青草を 彼らはいっしんにたべている
たべている
彼らはそこにみんな静かにたっている
ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まっている
もしも百年が この一瞬の間にたったとしても何の不思議もないだろう
雨が降っている 雨が降っている
雨は蕭々と降っている
三好達治
「定本三好達治全詩集」所収
1962
世界がわかわかしい緑になつて
青い雨がまた降つて来ます
この雨の音が
むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて
いつも私を堪らなくおびやかすのです
そして私のいきり立つ魂は
私を乗り超え私を脱がれて
づんづんと私を作つてゆくのです
いま死んで いま生れるのです
二時が三時になり
青葉のさきから又も若葉の萌え出すやうに
今日もこの魂の加速度を
自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
そして極度の静寂をたもつて
ぢつと坐つてゐました
自然と涙が流れ
抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
あなたは本当に私の半身です
あなたが一番たしかに私の信を握り
あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
私にはあなたがある
あなたがある
私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです
おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
私の生を根から見てくれるのは
私を全部に解してくれるのは
ただあなたです
私は自分のゆく道の開路者です
私の正しさは草木の正しさです
ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
あなたは海水の流動する力をもつてゐます
あなたが私にある事は
微笑が私にある事です
あなたによつて私の生は複雑になり 豊富になります
そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
私は今生きてゐる社会で
もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私はこの孤独を悲しまなくなりました
此これは自然であり 又必然であるのですから
そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
けれども
私にあなたが無いとしたら──
ああ それは想像も出来ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
あなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤独になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します
ヒユウマニテイの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の為めに生れたのだ
私にはあなたがある
あなたがある あなたがある
高村光太郎
「智恵子抄」所収
1913
誰もが指の先の棘を持て余しているのです
僕は少しのためらいもなく僕の内部で嘘の日蝕を許してみせています
影は何の約束もせずにとても真っ黒い影を追っています
春の石ころが春の石ころに蹴られている時です 初蝶になじられています
この時です 僕は必死に僕の内臓を歩き続けています この時です
ああ鳥の影が鳥を追って笑い続けています
その先の沼の中に見つけたことのない海があります
僕は指の中の棘を気にしています 静かに息をこらして
じっと見つめているうちに刃はずっと鋭くなります
昨日はくるみの木の梢の先が刺さっていたからです
一昨日は不穏な曇り空が刺さってきたからです
その前の晩は大きな猫の夢が指の内部で破裂したからです
ところで僕は坂道の途上にいます 上るほどにどんどんと痛みます
あるいは痛まないのです
指の先で思想を磨く棘を どうしようもないままに
ゆるやかな坂を行けば 折れ曲がった枝が落ちています
拾い上げると犬の声が耳を汚しています 鮮やかな草原で枯れてゆく
さるすべりの木と影と風とを思い出しているのは僕の脾臓であります
僕の指の中の棘はしだいに麻痺してくるのです 僕の指の中で
すると僕の指の中がしだいに麻痺してくるのです 僕の指の中で
僕はここに居るが僕はここには居ないのです
僕はゆるがない激痛の指先であるが 僕は少しも痛まないのです
僕は怖ろしいほどの現在ですが 僕は静謐な過去の比喩なのであります
ここまで生きてきた時間の内部で交わしてきた
絶対に破ることのできない約束を直立させる黄色い鉄塔が
僕の指の中にあります
僕の今日のなかで宇宙は尖り続けます
見知らぬ意味が さらに先へと国道を折り曲げていくときに
光り輝く黄色い小指が僕の人さし指の中で真っすぐに立っているのです
魚群は 群れを失くしながら静かな青空の理由を知らないのです
雲雀が無風の明日の上で大きくけんけん跳びをしているから
指紋の中で渦巻いている縄文時代の記憶を呼び覚ますと
0点の答案の上の黄色いボールペンが僕の指の中にあるのです
春の小海老の大群が桃色に染め上がっていくうちに
幼い日の空っぽのゲタ箱の中で青い時間が
澄み切ってゆくのを従兄弟と十姉妹はどうやって知ったのでしょうか
いくら踏んでも御喋りしているのは足の裏と何億もの影法師たち
眼帯の裏にあるのは霧の中の津波です 輝かしい孔雀に頬寄せて
内なる若葉の季節の反感にむせび泣けば たどりつくのは初夏の破約です
無人のブランコが世界を坐らせて背中を押しています
誰も訪れない集会所の鉄の扉の傷をどうしようもない
正午の庭先の黄色い柿の木は僕の指の中にあるのですから
黄色い電信柱なども みんな僕の指の中にあるのですから
ところで僕は 棘はどうするのでありますか
どうしたって 抜けないのです
指の中の激しい無痛あるいは無感覚の痛ましさ
僕はかけがえのない何かを信じています
ならば棘を抜こうとするのは止したほうがいいのです
ああ何という清潔な春の坂道なのでしょう
坂を上っていくほどに尖る指の中の棘があるのです
新しい時の前触れであるのです
僕はひどく指の中の棘を気にしているからであります
坂の下へと伸びていく僕の影はこのようにも
僕の魂の奥で新しい棘になっていきます いくのです
これを抜いて下さいよ これを抜かないで下さいよ
僕は傷ましい指先を濡らして
坂道で息を止めて初めての蝶を追っている
春の残酷な悪魔であります
雲の隙間から洩れる陽光をひどく呪っています
その小さな羽に山河の季節の輝きを見つけてしまい
驚いています ほら
僕の脳みそに鋭い風が突き刺さるのです
これが僕の愛のただなかにある
春の雷の兆しそのものなのかもしれないのです
和合亮一
「廃炉詩篇」所収
2010
春高楼の花の宴
巡る盃かげさして
千代の松が枝わけ出でし
昔の光いまいずこ
秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照りそいし
昔の光いまいずこ
いま荒城の夜半の月
替らぬ光たがためぞ
垣に残るはただ葛
松に歌うはただ嵐
天上影は替らねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
嗚呼荒城の夜半の月
土井晩翠
1901