深い青色をした花ほど、箱崎一郎の心を捕らえるものはなかった
ある日のこと
駅前で友人を待っているときに
ふと目が近くの花壇にいったのだ
そこに偶然
小さな青い花が群生していた
自分の視線が
掃除機にかけられたようにそこへ吸い込まれ
箱崎はなにごとが起こったのかわからなかった
青は
箱崎の粘膜を突き破り
氾濫した川のように箱崎の内へ及ぶ
言葉という言葉はことごとく溺死した
深い沈黙ののちに釣り上げられたのは
小魚のような感嘆符だけだった
ああ、
なんと深い青、
と箱崎はおもった
声をあげて泣いてしまいたいほどの
するどい悲しみに襲われたのはそのときである
悲しむ理由などひとつもなかったし
こんな駅前で
突然泣くわけにはいかないと
箱崎はぐっとこらえたものの
自分がいま
生まれたばかりの赤ん坊になったような気持ちがした
この世に出てきて初めて見た青い花
それは一瞬の
衝動とも言える感情のうごきであり
パッションというものからほど遠い箱崎が
そのときほど自分におどろいたことはない
たかが色
たかが青色
しかし箱崎は取り乱していた
心臓が
しめつけられ
花のなかへすぐさま飛び込んでしまいたいと思った
それはまったく
花との恋愛、そのものだった
「箱崎、待たせたな」
そう言って肩をたたいた、あとからやってきた友人によれば
箱崎はそのとき
どことなくゆがんだ顔をしていて
青い花がどうのこうの言っていたらしい
それは実際のところ
物凄く頼りない
赤ん坊のようなふるまいであったということだ
後日談──
① その後の箱崎についてはなにも知らない。
② アジア人は、新生児のとき、尻付近に蒙古斑が現れる。水彩絵具を水で梳いたような、極めて薄い青のしるし。身体のうちに、我々は、そもそも、青を持っている。
足の付け根のリンパ腺のところに、子供のころの私は、アーモンド型の蒙古斑を持っていた。風呂場では、自分のそれと、妹のそれとを見比べたものだ。かたちも色も、妹の蒙古斑は、自分のとは少し違っていた。いまでは、身体のどこにも、見あたらないが、いつ、どこでどんなふうに消えていってしまったのか。
③ ある日私は、庭の青い昼顔をねっしんにのぞきこみながら、ふと、自分が、人間のまたぐらをのぞきこんでいるような気がした。植物のいのちはスクリューのように回転しながら、見るもののいのちの深部に触れてくる。
私もまた、箱崎のように、青い昼顔に夢中になった。この西洋昼顔は、芯にあたたかな黄色を持っている。そしてそのまわりには、あの悲しいほどの青色が幽玄とひろがり、じっと見ていると私もまた、昼顔のなかへ飛び込んでしまいたいと思いつめた。花のなかへの投身自殺、青への思慕、それは、昔から、たくさんの若者たちをして旅へと赴かせた感情の原形ではなかったか。
④ 男の子は青、女の子は桃色、学校では先生がそのように言う。振り分けられるっていやな気分。裁縫箱も、お習字の道具も、見渡せばみんながそんなふう。でも私はピンクが好きじゃない。そう思ったとたん、心が決まる。気がつけば、クラスの女の子のなかで、私の裁縫箱だけがブルーだった。
青─おまえは女の子であった私の、いっとう始めのささやかな抵抗の色であり、自由というものの匂いを暗示した、誠に気高い色だった。
⑤ 私は箱崎ではないだろうか。箱崎は私ではないだろうか。私たちは青に恋をする人間。
昨日出会った短歌を詠む少年は、玉の汗を鼻頭にかき、和泉式部について語った。
「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」
しろめの部分が、薄く青みがかった少年だった。
小池昌代
「雨男、山男、豆をひく男」所収
2001
小池昌代さんの「深い青色についての箱崎」は著者の許可をいただいた上で掲載しております。
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