手動のコーヒーミルで
がりがりとコーヒー豆をひくとき
男はいつも幸福になるのだった
それは男自身が
気がつかぬほどの微量の幸福であり
手ではらえばあとかたもなくなってしまう
こぼれたひきかすのようなものだったが
この感情をどう名づけてよいか
男自身にはわからなかった
長い年月
男は
自分が幸福であるとは
ついに一度もかんがえたことはなかったし
そもそも
不幸とか幸福という言葉は
じぶんがじぶんじしんに対して使う言葉ではなく
常に
他人が使う言葉であると
かんがえてきた
そしてこの朝のささやかな仕事が
自分に与えるささやかなものを
幸福などと呼んだことは一度もなかったし
ましてや
自分をささえる小さな力であることに
気付きようもなかった
コーヒーを飲んだあと
男は路上の仕事に出かけるのだ
看板を持ち
一日中、裏道の中央に立ち続ける仕事
看板の種類にはいろいろあって
大人のおもちゃ、極上新製品あり、このウラ
とか
CDショップ新規開店、一千枚大放出
などと書かれている
同じ場所・同じ位置に立ち続けること
それは簡単なようでいて難しい修行だった
生きている人間にはそれができない
彼らは始終、移動している
なぜ、一つの場所にとどまれないのか
なぜ、石のように在ることができないのか
男は板の棒を持って立っていると
いつも自分が棒に持たれているような気持ちになったものだ
「生きている棒」
そう自分につぶやくと
眼の奥が次第にどんよりとしてくるのだった
そんなとき、男はすでに
モノの一部に成り始めているのかもしれない
いつか勤務帰りの深夜
男は
駐車場の片隅で
黒い荷物が突然動き出したことに
驚いたことがあった
浮浪者の女だった
そのとき
一瞬でも、人をモノとして感じた自分に
はじめて衝撃を受けたのだったが
いまはその自分が
容赦もなく物自体になりかけている
しかし
きょう、始まりのとき
男はいまだ全体である
一日は
コーヒーを飲まなければ始まらないのだから
だから、こうして豆をひくことは
男の生の「栓」を開けることなのだった
男は
いつからかそんな風に感じている自分に少し驚く
豆をひき、コーヒーをつくる時間など、五分くらいのものだが
その五分が
自分にもたらす、ある働き
その五分に
自分が傾ける、ある激しさ
そして
この作業を
小さな儀式のように愛し
誰にもじゃまされたくないといつからか思った
もっとも、じゃまをする人間など、ひとりもいなかった
男はいつも一人だったのだ
がりがりと
最初は重かったてごたえが
やがてあるとき
不意に軽くなる
この軽さは
いつも突然もたらされる軽さである
まるで死のように
死のように
そのとき、ハンドルは
からからと
骨のように空疎な音をたてて空回りする
ようやく豆がひけたのだ
着手と過程と完成のある
この朝の仕事
きょうも重く始まった男のこころが
コーヒー豆をがりがりとひくとき
こなごなになり
なにかが終る
きょうが始まる
容赦のない日常がどっとなだれこむ
コーヒー豆はひけた
そして男は
「豆がひけた」と
口に出してつぶやく
小池昌代
「雨男、山男、豆をひく男」所収
2001
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