わが故郷は、日の光蟬の小河にうはぬるみ、
在木の枝に色鳥の咏め聲する日ながさを、
物詣する都女の歩みものうき彼岸會や、
桂をとめは河しもに梁誇りする鮎汲みて、
小網の雫に淸酒の香をか嗅ぐらむ春日なか、
櫂の音ゆるに漕ぎかへる山櫻會の若人が、
瑞木のかげの戀語り、壬生狂言の歌舞伎子が
技の手振の戲ばみに、笑み廣広ごりて興じ合ふ
かなたへ、君といざかへらまし。
わが故郷は、楠樹の若葉仄かに香ににほひ、
葉びろ柏は手だゆげに、風に搖ゆる初夏を、
葉洩りの日かげ散斑なる糺の杜の下路に、
葵かづらの冠して、近衞使の神まつり、
塗の轅の牛車、ゆるかにすべる御生の日
また水無月の祇園會や、日ぞ照り白む山鉾の
車きしめく廣小路、祭物見の人ごみに、
比枝の法師も、花賣も、打ち交りつつ頽れゆく
かなたへ、君といざかへらまし。
わが故郷は、赤楊の黄葉ひるがへる田中路、
稻搗をとめが靜歌に黄なる牛はかへりゆき、
日は今終の目移しを九輪の塔に見はるけて、
靜かに瞑る夕まぐれ、稍散り透きし落葉樹は、
さながら老いし葬式女の、懶げに被衣引延へて、
物歎かしきたたずまひ、樹間に仄めく夕月の
夢見ごこちの流眄や、鐘の響の靑びれに、
札所めぐりの旅人は、すずろ家族や忍ぶらむ
かなたへ、君といざかへらまし。
わが故郷は、朝凍の眞葛が原に楓の葉、
そそ走りゆく霜月や、專修念佛の行者らが
都入りする御講凪ぎ、日は午さがり、夕越の
路にまよひし旅心地、物わびしらの涙目して、
下京あたり時雨する、うら寂しげの日短かを、
道の者なる若人は、ものの香朽ちし經藏に、
塵居の御影、古渡りの御經の文字や愛しれて、
夕くれなゐの明らみに、黄金の岸も慕ふらむ
かなたへ、君といざかへらまし。
薄田泣菫
「白羊宮」所収
1907
高校の頃、国語の教科書に紹介されたこの詩の、いかにも定型詩らしい口調の良さに惹かれて、
近代詩に興味を持った記憶があります。
じつはこの(平成29年)1月に京都の下鴨神社にお参りにいった際、境内に鬱蒼とした糺(ただす)の森があり、その中を流れる流れが「瀬見の小川」と名付けてありました。
公表されている泣菫の詩では「わが故郷は、日の光、蝉の小川に上温み~」とありますが、
ひょっとしたら、この下鴨神社の流れのことを指しているのではないでしょうか。
どなたか、お答えいただけると幸いです。
😳