在る

 僕は近ごろ、大へんお節介になってきて自分でも困っている。公衆電話にながい列ができていたりすると、わざわざそこへ行って、あちらに空いた公衆電話がありますよ、と告げに行ったり通りががりのポストの口に、入りかけた手紙がはみ出しているのを見ると、手で押し込みに行ったりする。
 他人に話しかけるのがきらいで、他人から話しかけられるのもきらいだった自分の変わりようが、自分ながらふしぎでならない。
 たてこんだ食堂で、空いた席はないかとさがしている人を見ると、食事の終わった僕は、立ち上がって、手招きする。向うが気づかないと、ここが空きますよ、声をかけたりする。それを、そういう僕を、同行の家族たちは、嫌がって、恥ずかしがる。
 電車のなかで、銅貨を唇にひっつけている小学生を見たので、汚いからやめなさい、といったら、その子はプイと向うへ行ってしまった。交叉点で、シグナルを待っているとき、向うのアスファルトが、逃げ水に光って、自動車がうつっている。誰も気がつかないので、傍におしゃべりしている若い女性たちに、指をあげて、ほれ、あれが逃げ水、といってやったら、彼女たちは、チラッと僕の顔を、怪訝そうに見て、精神異常者のひとり言と思ったのか、不快そうな顔をして、またしゃべりつづけた。
 僕も、他人の教えたがり、お節介はきらいだったから、彼女たちの気持はよくわかる。それなのに、他人がみな友人や、わが子のように感じられて、話しかけるのが平気になり、きらわれていると知りながら、黙っておれないのだ。
 電車で、前の席に、しきりにチューインガムを噛む若い女性が坐っている。服装もよいし、顔だちも、嫌な感じではない。だが、そのガムを噛む口つきを見ることに僕は耐えがたい。ときどき口をつき出すように前歯で噛んだりする。僕は、彼女がガムを噛むのを不快に思っていることを、なんとか知らせようと思って、じぃーと、口さきを見つめることにした。彼女は僕に無関心である。けれども、あまり見つめるので、なんとなく気がついたらしい。僕の方を見なくなった。それが意識的なのがわかる。つまり、僕が彼女の美しさに非常に惹かれ、関心をあつめている男性と見えたのであるらしかった。僕は、そうではないと思わせるために、眉をしかめ、目にできるだけ怒りを込め、そして、口だけに視線をあつめていることを見せるよう努力した。しかし彼女は僕の視線を、頬で感じて、たのしんでいるだけだ。
 たしかに彼女はたのしんでいる。一心不乱にチューインガムを噛んでいる。それがなぜ、僕に不快なのだろう。彼女がたのしそうだからか。他人の幸福は、僕の不幸か、たしかにそれもそうだが、彼女を叱る理由はなにもない。食後満足して妻楊枝をくわえて歩いている人を見るのも不快である。彼が幸福そうだからか。
 男女が手をつないで歩いているのを見るのも不愉快である。彼らが幸福であるからか。嫉妬ごころであろうか。その原因をいろいろ考えてみると、結局、周囲、他人への無関心が不快の一つの原因であるらしいことに思い当たった。手をとりあった男女のうち、男は、そういう視線を感ずると、恥ずかしそうにする、それを見ると、僕には大へん好ましく思える。女は全然、他人周囲がわからない。これも、けれども、やめなさい、と怒鳴る理由がはっきりしない。
 チューインガムの女に、僕は注意することはできない。「禁煙」の貼り札にならんで「禁ガム」という表示でもないかぎり、僕はお節介をやくわけにはいかないであろう。声をかけられないために、僕は苦しむ。
 僕は、この人は早く降りるだろうと思って、その人の前の釣革にぶら下っていた。僕は席がほしかった。その人は近くで降りる人であることは、服装や持物で判断できた。その人は、しかし、僕の期待に反して、次の駅に来ても、次の次の駅に来ても降りなかった。他の席の客は入れかわるのに、なんということであろう。彼は読んでいた新聞をたたんだ、やっと空くか思ったのも束の間、彼は眠りはじめた。僕は憤慨した。彼の皮膚の色の茶色なのも不愉快である。その口の結び具合、しわまで不快になってきた。なんだ、そんなところにホクロなんかつけやがって、と首すじの黒子も気に入らない。しかし僕は彼に怒鳴るわけにはいかない。その人はなにも悪いことはしていない。なにも誤っていない。
 それなのに、その人は僕にうらまれている。なにを、その存在を、である。席を占めていることを、である。在ることが、他人にとって邪魔なのである。存在は罪である。悪である。
 誤った判断をした自分への攻撃は忘れて、僕は全身をあげて、その人物への憎悪をたぎらせた。しかも、一言も彼にいうことはできない。彼は、その人は、どの駅にも降りず、ついに僕の降りる駅に止ったとき立ち上った。僕は、その人のうしろから、ぶちまけられない怒りにふくれ上った僕は、まさに嘔吐せんばかりに、青ざめて、疲れて、暗いホームの上を歩いて行った。
 僕も、在ることが、存在していることが、生きていることが、他人にとってたいへんな罪になっているのだろうか。

杉山平一
ゼピュロス」所収
1977

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