間もなく十歳になろうかという女の子がひとり、ぼくの家の玄関に立っていて、ぼくを見るといきなり言った。あなたなんか、一度だってわたしをお部屋に通してくれたことがないじゃないの!わたしはいつも寒い玄関に立っているだけ!ほんとうにあなたなんか!
 眼にいっぱい涙をためて、ぼくを非難するその子を見ていると、ぼくの胸もかなしみでいっぱいになるけれど、いったいぼくはどうしたらいいのだろう。その子の前に立っているぼくの背後は暗い廊下で、突き当りの重い木のドアはほんの少し開いている。いましがたぼくが出て来たとき、よく閉めなかったからなのだが、そのために玄関の会話は妻や子供たちに全部きこえている筈だ。ぼくが出て来るとき、妻は食後のお茶を飲みながら新聞の日曜版を拡げようとしていたようだし、十二歳の長女はお友だちの家に行くとき持って行くからと野の花の刺繍の小さなハンカチにアイロンをかけていた。九歳の次女は窓から雑木林を眺めていたが、雑木林では三週間ほど前から鶯が啼きはじめ、はじめのうちはただ、ジジ、ジジと不器用に声だけ出していたものが、いまではホーホケキョ、ケキョケキョケキョなどと上手に啼き、そうだあの鶯はぼくの鶯にしてしまおう、だからあの鶯に名前を付けよう、よし決めたあれは今日から次郎吉だとぼくが呟いたので、九歳の次女はわたしはそんな名前はいや、もっと可愛らしい、外国の子供みたいな名前がいいと、松だけ次々と枯れて行く雑木林を眺めながらさっきから考えているのである。お父さん、鶯のアプーリちゃんというのはどうかしら。だめだね、あの鶯は次郎吉さ。
 あなたは知らないでしょうけれど、わたしは五つのときから施設にいたのよ。手足は煤と痣だらけ、痩せっぽちで、いつもひとの様子ばかり窺っている五歳の女の子、それがわたしよ。あなたは知らないでしょうけれど。
 どうしてぼくが知らないなんて言うんだい。たしかにぼくはおとなになったけれど、ぼくのなかみはあのころのまんまなんだ。きみや、きみのお友だちの小さい男の子や女の子がいっぱいぼくのなかにいて、ときどき泣いたり騒いだりするんだ。それはきみだってようく知っているから、こうしてぼくのところへ来るんじゃないか。
 それじゃ訊きますけれど、どうしてわたしには暖かいお部屋ないのですか。ほら、あのドアの向こう、あんなに明るい!それから訊きますけれど、どうしてわたしには家族もいないの。どうしてなの、おしえてよ。
 おしえてよと言われたって、人生のことはぼくにはよくわからない。(いいわね、昨日までのことはみんな忘れるのよ、忘れなくちゃだめ)ってあの日先生が言ったから、(ぼくだって六歳だったじゃないか!)ぼくは全部忘れたのだけれど、きみは先生のお話をきいていなかったのかい?みんな、死に物狂いで忘れたのに。
 わたしはお腹が痛くて、保健室で寝ていたからそのお話はきかなかったのよ。でも、すぐにわかったわ、みんな、どこかへ行ってしまうなって。そしてそのとおりになったでしょ。あなたまで、わたしを保健室においたまま行ってしまったの。どうしてなの。

 どうしたの。そんなところで。
 妻の声に振り向くと、ドアはいっぱいに開かれ、陽光が差しこんでいる居間が眩しい。いやなんでもないのだけれど、なにか厖大なものが、ぼくにやって来そうな気がするんだ。あんまり大きなかなしみや苦悩はぼくには向かないから、どこかよそへやってほしいんだけれど、なんだか、ドカッと来ちゃいそうな気がするんだ。ぼくは、(困るよ)って言っているんだけれど。
 誰にそう言っているの。よくわからないわ言っていることが。それにあなた、食事の途中でふっと立って、そのままここに来て俯いていたのよ。さ、お部屋に戻りましょ。
 そばに来たのはたしかに妻だが、はじめて見る顔のような気もする。(あなたはどなたですか)ってきいたら、なんて言うだろう。

辻征夫
鶯──こどもとさむらいの16篇」所収
1990

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