突然、大粒の雨が落ちてきた。家並みのうえの空が、
にわかに低くなった。アスファルトの通りがみるみる黝
くなり、雨水が一瞬ためらって、それから縁石に沿って
勢いよく走りだした。若い女が二人、髪をぬらして、笑
いあって駈けてきた。灰いろの猫が道を横切って、姿を
消した。自転車の少年が雨を突っ切って、飛沫をとばし
て通りすぎた。
雨やどりして、きみは激しい雨脚をみつめている。雨
はまっすぐになり、斜めになり、風に舞って、サーッと
吹きつけてくる。黙ったまま、ずっと雨空をみあげてい
ると、いつかこころのバケツに雨水が溜まってくるよう
だ。むかし、ギリシアの哲人はいったっけ。
(・・・魂はね、バケツ一杯の雨水によく似ているんだ
・・・)
樹木の木の葉がしっとりと、ふしぎに明るくなってき
た。遠くと近くが、ふいにはっきりしてきた。雨があが
ったのだ。
長田弘
「深呼吸の必要」
1984