よろこびは いかなる日にあったか。あるいは苦しみが。よろこびと苦しみの その構造を除いて。いかなる自由においてえらばれたにせよ えらばれたのは自由でも 苦悩でもなく つねにその構造であったということを。語りつがれたものはその構造でしかなく 構造をうながしたものは 永久に訪ねるもののない原点として残りつづけたし 残りつづけるのだということを 一度だけは確認する必要があるだろう。
ゆえに 語りつがれなければならないのはつねに それを強いた構造ではなく それが強いられた構造である。しいられた果てを おのれにしいて行く さらに内側の構造である。
その構造において 構造をそのままに おのれにしいる静寂があったということを およそ語りつぐものは一人であり 語りつがれるものもまた一人である。
われらが構造にやすんじあえるのは まさにそのゆえである。
石原吉郎
「禮節」所収
1974