或る声・或る音

発車合図の笛が駅のホームに響き
電車が静かに動き出すと
隣り座席の若い母親の
膝に寝かされた一歳ほどの男の子が
仰向いたまま
また、声を発する。
初めは低く
次第に声を高め
或る高さになったところで
そのあと、ずーっと同じ声を発し続けるのだ。
電車が次の駅のホームにすべりこむと
その声は止む
電車が動き出すと
その子は再び声を発し
次第に声を高め
或る高さの声を保ち続ける
母親の膝に仰向いたまま、微笑んで。
──私は気付いた
レールを走る車輪の音を、その子は
声で真似ていたのだ。
発車して、車輪が低いサイレンのように唸り始める
速度を増すにつれて、やや高まり
走行中、唸りは切れめなく続く
その音を、声でなぞっていたのだ。
レールを走る車輪の音に、こんなにも親しく
どこの大人が
声で寄り添ったりしただろう。
電車に乗れば足もとから
必ず湧き上がってくる車輪の音に
私は、なんと久しく耳を貸さなかったことか。
私は俄かに身の内が熱くなり
目をつむり
あどけないその子の声と
その声に寄り添われた鉄の車輪の荒い息づかいを
そのとき、聞いた
聞えるままに、素直に聞いた。

吉野弘
陽を浴びて」所収
1983

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください