トンボは北へ、私は南へ

金とはいつたい何だらう、
私の少年はけげんであつた
ただそのもののために父と母との争ひが続いた、
私はじつと暗い玄関の間で
はらはらしながら二人の争ひをきいてゐた、
母はいつまでも泣きつづけてゐたし
父は何かしきりに母にむかつて弁解したゐた、
朝三人は食卓にすわつた
父が母に差し出す茶碗は
母の手に邪険にひつたくられた
父はその朝はしきりに私をとらへて
滑稽なおかしな話をして笑はせようとしたが
私はそれを少しも嬉しいとは思はなかつた、
金とはなんだ――。
親たちの争ひをひき起すもの
あいつはガマの子のやうなものではないか、
ただ財布を出たり入つたりする奴。
私はそつと母親の財布をないしよで開けてみた、
だが財布のガマの子は
銀色になつたり茶色になつたり、
出たり入つたり、しよつちゆう変つてゐた、
なんといふおかしな奴。
しかしこいつは幾分尊敬すべき
値打のあるものにちがひない、
少年の私はこの程度の理解より
金銭に対してはもつてゐなかつた、
童話の中の生活は
生活の中の童話でもあつた、
現実と夢との間を
すこしの無理もなく
わたしの少年の感情は行き来した、
だが次第に私は刺戟された、
現実の生々しいものに――。
そして私に淋しさがきた
次いでそれをはぎとらうとする努力をした、
私はぼんやりと戸外にでた
そして街の空を仰いだ、
この山と山との間に挾さまれた小さな町に
いま数万、数十万とも知れぬ
トンボの群れが北へ北へと
飛んでゆく
私の少年はおどろき
なぜあいつらは全部そろつて北へ行くのか
あいつらは申し合せることができるのか
素ばらしい
豪いトンボ、
何処へ何をしにゆくのだらう、
なかには二匹が
たがひに尻と尻とをつなぎあはせて
それでゐて少しもこの二匹一体のものは
飛ぶことにさう努力もしてゐないやうに
軽々として飛ぶ群に加はつてゐた、
それを見ると私は
理由の知れない幸福になれた、
そしてそのトンボの群の
過ぎ北へ向ふ日は幾日も幾日もつゞいた
私はそれを毎日のやうに見あげた
夜は父と母とが夜中じゆうヒソヒソと
金のことに就いて争つてゐるのを耳にした、
私は金銭や、父や、母や、妹や、
其他自分の周囲のものではなく
もつと遠くのもので
きつと憎むべき奴がどこかに隠れてゐるんだなと考へるやうになり
そいつと金とはふかい関係があるやうに思へた
またそれを探らうとした、
トンボは北へとびそれを見る私の少年は
トンボを自分より幾倍も
豪い集団生活をしてゐるものゝやうに考へ、
そしてしだいに、自分が愚かなものに見え反逆を覚えだし
トンボよ、
君は北へ揃つて行き給へ、
僕は南の方へでかけてゆかう、
さういつて私の少年は南へ向けて出奔した、
最初の反逆それは
私は故郷をすてることから始まつた。

小熊秀雄
小熊秀雄詩集」所収
1935

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