狐は尾を水に濡らさないそうだ
たとい 獵師や熊に追い駈けられて
倉皇と谷の流れを横切るときでも
あの重いふさふさした尾を巧みに捌いて
飛沫の一滴にも濡らさないさうだ
ところで 或る時 私はこの眼で見た
一匹の狐が慎重に川瀬を徒渉り
あわや 向う岸にとどくという間際に
いかなる不運に魅入られたのか
ふらりと 尾の先端を水面に垂れたのを
刹那狐は襲われたかのように
躍り上がつて いつさんに夕霧の中に隱れたが
不思議に しばらく 私には見えてゐた
霧のむかふで どんなに彼が悔いてゐたか
悔いに悶えながら走りつづけてゐたかが
丸山薫
「北国」所収
1946