わたしの父親は、日曜日の「将棋番組」を欠かさず見るような将棋好きでした。
この父の影響でいつのまにかわたしは将棋を好きになっていたのです。
子供の頃、父と将棋をするときは、もちろん駒落ち。
飛車を落とせば「飛車落ち」、飛車と角を落とせば「二枚落ち」
わたしはこの二枚落ちでよく父と将棋をしました。
大人になってからも、私の将棋好きは変わりません。
多少、将棋の本を読んで強くなったといい気になり
実家へ帰れば、必ず父と将棋を指しました。
しかしまったく勝てません。
父は病院で死んだのですが
死ぬ少し前、入院先の病室で、毎日毎日、父と将棋を指しました。
父の病気は治る見込みはなく、長くて一ヶ月
それは父以外、みんな知っていることでした。
病室は三階にありました。
エレベーターを降り、白い廊下を真っ直ぐ奥まで行くと
六人部屋の病室を入ってすぐのベッドに父は横になっていました。
わたしが行くと父はベッドのリクライニングを起こします。
小さなロッカーのようなテーブルの引き出しから、将棋盤と駒箱を出します。
わたしは病院の名の書かれたボロボロの丸椅子に座り、日がな一日将棋三昧です。
父は将棋をしながら、将棋の格言のようなことをよく口にする人でした。
「王の早逃げ八手の得」「金底の歩、岩より固し」「桂馬の高飛び歩のえじき」
わたしはその頃、なぜか桂馬が好きで、桂馬をはねることが多かったのでしょう。
「桂馬の高飛び歩のえじき」は、よく父が口にする言葉でした。
しかしわたしが勝つことはありませんでした。
体が衰弱していても、父の思考は至ってまともなのです。
ところがある日、これは「勝てるな」と思ったことがあります。
その日、わたしは平手で父と将棋を指していました。
わたしは途中で「勝てるな」と思ったのです。
それからすぐに「おかしいなあ」と
わたしが平手で父に勝てるはずはないのです。
思えば中盤あたりから、父の指す一手一手が、あきらかにおかしくなっていました。
父は、その頃から痛み止めに強い薬を飲んでいたのでした。
そのせいで深くものを考えられなくなっていたのです。
薬が相当強いものだということを、このとき知りました。
そして「この人は死ぬんだな」
そう確信したのです。
あれだけ将棋の強い父が、まるでとんちんかんな手を打って
そのことに、もう気付けなくなっている。
このままいけばわたしは勝てるのです。
そして、わたしがここで勝てば
父は自分の病気の重大さを知ってしまうかもしれない、と思いました。
わざと負けようか。そんな考えが自分の中に過ったとき
勝たなければと思ったのです。
わたしが今後将棋が強くなったとして、その過程に父はいません。
わたしは今日勝とうと思ったのです。勝とう、勝てる、と。
そう思うと、なかなか次の一手が思いつかないものです。
「指す手がないときは端歩をつけ」
むかし父が教えてくれた言葉通り、わたしは端歩(右)をつきました。
わたしがあまり意味のない歩をあげたことで
「なんでまた、そんなとこつくかなあ」と父はため息混じりに言うのです。
この局面で端歩がおかしいことだけはわかるようでした。
こういった状況で、わざと負ける、嘘でもいいから勝たせてあげる
そんなことは承知で、わたしは勝たなければなりませんでした。
父はもうすぐ死ぬんですから
嘘でもいいから治ると言ってあげれば、わざと負けてあげれば
それでも人は死ぬのです。
人は死んでゆくものなんだ、ということを
こうして父と将棋を指すことでしかわたしにはわからなかったでしょう。
わたしは父が死んだあとも生きていきます。生き続けなければならないのです。
わたしはいまでも、あの勝負は絶対に勝たなければならなかったと思っています。
しかし、この日もわたしは父に勝てませんでした。
端歩を指した辺りから、なにがなんだかわからなくなってしまい
そのあと十分もしないうちに王手をかけられ、その局面で詰んでいたのです。
わざと負けたのではなく、弱いから負けたのです。
その翌々日、父は病室を四階に移され、特別室に入ったあと、すぐに死にました。
将棋好きだった父の棺にわたしは将棋の駒を入れました。
中村葉子
「夜、ながい電車に乗って」所収
2006
「父と将棋」は中村葉子さんの許可をいただいて掲載しています。
無断転載はご遠慮ください。
この詩を読んで興味を持たれた方は是非下記のサイトも参照して見てください。
中村葉子
ポプラビーチ連載「なにもかもおもいだす」
http://www.poplarbeech.com/nakamura/nakamura.html
Web掲載詩
http://www.kztcoolmint.sakura.ne.jp/poem-gou/y-nakamura.htm