真珠玉

 バスに乗っていた。
 ぱちぱちと音を立てて、白いものがいくつか、床の上を跳ねた。前の方の席に座っていた女の人が、バッグを抱えて立ち上がり、床へと屈みこむ。
 真珠だ。ネックレスが切れたのだとわかった。意思あるもののように転がる真珠の玉を、その女の人は、伸ばした指先で追いかけた。一つは無事、捕まえられた。けれど、そのあいだにも、他の真珠球は勝手気ままな方向へそれぞれに転がり、遠ざかっていく。
 車内はすいていて、立っている人はほかにはいない。座ったまま、首を下方へ向け、眼だけで真珠を追う乗客もいた。女の人は手すりを握り、からだを半分に折り曲げて、近くの椅子の下も、遠くの椅子の下も、覗きこもうとする。
 「危ないですから席にお座りください」
 運転手が注意した。筆圧の高い人が、ブルーブラックのインクで書いたような声だった。真っ直ぐな、怒っている声だ。注意されて、女の人は元の場所に座った。急いで。でもすごすごと。
 曲がり角に差し掛かると、バスはわずかに傾いた。一粒、転がり出た。高校生くらいの男の子が、椅子から腰を浮かせたかと思うと、真珠を拾って、女の人に手渡す。荷物のなかから、ラケットが飛び出している。テニス部らしい。
 走行中なのに立ち上がったから、また注意されるだろうか。運転手の後頭部を見つめる。潰れた帽子が載っている。今度は、なにもいわれなかった。
 「ありがとう。ありがとうね」
 女の人は頷くようにして繰り返した。大事なネックレスなのだ、ということが伝わってきた。私も、探さなければ。と床から眼を離さずにいるあいだも、女の人は背もたれから背中を離したまま、そわそわと落ち着かない。
 バス停で止まる。一人だけ乗ってくる。車内の出来事を知らない年配の男性。女の人は椅子に腰掛けたまま、その男性のことをじろっと見る。もしも真珠を見つけたら、それは私のだから。というような、強い視線を向ける。瞬間的に。
 発車。流れ去るバス停。窓の外に、酒屋。更地。スーパー。郵便局。あと二つ、三つはあったのに、どこかに引っ掛かったのだろうか真珠は。と、見ていると一粒、白色の光を引いて転がった。
 小学生の女の子の足元へそれは転がり、拾われた。拾うのを見ていて、女の人は首を縦に振りながら、両手を差し出した。道が悪いのか、バスは揺れていた。立ち上がろうとしながら、立ち上がれない。小学生は、揺れがおさまるのを待っているようだった。揺れも避けなければならないが、運転手の不機嫌な声も、避けなければならない。けれど女の人は、待ち切れなさそうな眼つきをしてあたりを睨んだ。あと、何個、落ちたのだろう。
 バスが止まる。降りる人より、乗る人のほうが少ない。小学生は、急いで真珠を渡す。女の人は両手で受け取った。うやうやしく、宝物を受けるように。前髪の短い小学生は、恥ずかしそうにくるっと身を翻して、席へ戻った。
 乗客が入れ替わったので、真珠が落ちたことを、どの人が知っていて、どの人が知らないのか、わからなくなった。出来事を知っている人たちのあいだに漂うのは、緊張、同情、巻きこまれたくない、という気もち。知らない人たちのあいだには流れるものはなくて、それぞれがそれぞれの行き先に心を引かれ、動きを封じられている。石像のように。持ち主の女の人だけがいつまでも落ち着かない。
 降車を知らせるボタンに手を伸ばす。力を持て余した虫のように、ブザーが鳴る。次、降りる。どうなるのだろう。見とどけられない。まだ二つ、三つは転がったはずなのに。白い玉。
 女の人の脇を通ったとき、確かに聴こえた。本物じゃないから、いいか。はっとしたけれど、気づかないふりをして、バスを降りた。靴の周りに影が落ちた。

蜂飼耳
「夜の絵本 ルオーの贈り物」所収
2008

One comment on “真珠玉

  1. 「真珠玉」は蜂飼耳様の許諾をいただいた上で掲載しております。
    無断転載はご遠慮ください。

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