愛人

うせもの
おおし。
まちびと
きたらず。
待人来る。待人来らず。来る。来らず。楠の大木の深い葉の繁みごしに見える交差点の信号燈。きみは赤から青へと変わるその冴えざえとした輝きがうつくしいとおもう。待人来らず。空の高みに浮かんでいるような私鉄の駅のプラットフォームへのぼってゆく見知らぬ人の白い後ろ姿。それがぼうっと闇にまぎれてゆく熱暑の夕暮がうつくしいとおもう。それとも早朝。あたらしい陽光を照りかえしているかなたの建物の小さな窓が不意にひらく瞬間に立ち会うことの驚きもまたうつくしいとおもう。だがそれらはすべて遠いものでありきみはだれからも愛されない。
かぜの
たより。
なれの
はて。
孤雨におびきだされてきょうもバス停にたつ暗いしずかな心はふきすぎる湿った風にほとびていって。桜にもくるい紅葉にもくるうきみのおびえやすい官能の皮膚。その虚妄の情熱。
ふう
とう。
みず
もれ。
いち
ねん・・・・・
けれども虚妄でない情熱がどこにあるだろう。たえず無色でいたい。あらいおとされる寸前のどんな色にもすかさず染まるために。くるう。くるう。うつくしさとの交信。色の待機。うつむき。うとんじられるだけの廃貨の数々だ。バスは来ない。くるる。くるる。自動車の騒音をつらぬいてふしぎな鳥の声がかすかに伝わってくる。すぎていったあのやさしいやわらかい歳月がいとおしかった。手も足もいつも濡れていた。もうなにもわからず。待人は来らず。かぞえている。せんひゃくいち。せんひゃくに。せんひゃくさん。・・・・・「おおうるわしの、羽、羽よ、七色の、十七色の・・・・」停留所。終りのない愛のための。だれのものでもなく冷気のなかをただよう予感。ただ予感のみ。それがきみの孤独をわたしのところまで送りとどけてくれるかもしれぬ。鎮まれ。鎮まれ。まだバスは来ない。行先はどこだったか。あめもよい。
ふれば
どしゃぶり。

松浦寿輝
冬の本」所収
1987

2 comments on “愛人

  1. 「愛人」は松浦寿輝様の許諾をいただいた上で掲載しております。
    無断転載はご遠慮ください。

  2. 学生時代に読んだフランスの詩を想起しました。ランボー、マラルメ、ボードレール、今はもう遥か彼方にぼんやりと思い起こされるだけですが、青春時代の激情と夢ばかりの貧しい生活の中で詩は唯一豊かな世界に誘ってくれるものでした。

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