赤いわらぞうり

祖母は
わらぞうりをあんでいた。
足の間に
ぼんぐりとよばれる
小さなあんかをはさみこみ
黒いカクマキで
それをおおい
ぎっちり ぎっちり
指さきをかたくして
わらぞうりをあんでいた。

そのころ、
きのうも
きょうも
雪はだまって
降りつづいていた。
きのうも
きょうも
祖母はだまって
わらぞうりをあみつづけていた。
祖母がだまって
あみつづけるかぎり
ぼくは
三日にいっぺんずつ
わらをうたねばならなかった。
祖母は
二枚のむしろと一わのわらを
ひきずるようにして土間にはこんでくる。
ぼくは木づちをもってきて
そこにすわる。
大きな声で
でたらめな歌をうたいながら
トントンとわらをうつ。

ときには
祖母もわきにすわって古い歌をうたったりした。
ぼくの木づちは
とぼとぼとした
祖母の歌の調子に
トントンとよく合った。

しなしなとして
やわらかくなった
わらをおさえて
祖母は
もういい
という。
そのわらをかかえて立ちあがりながら
ことしのわらは いいわらだ
という。
そして さらに
わらのできのいいときゃ
もみのできゃわるいしのう
といったりする。

祖母は
わらぞうりの一足一足に
みんなおなじ
くすんだ赤いはなおをつけた。
ときおり
指をおっては
むねでなにかをかぞえていた。
そしてまた
だまってあみつづけた。

ある日、
祖母は
ぼくをよんだ。
物おきいっぱいに
赤いはなおのわらぞうりが
ならんでいた。
みんなで九十八足あるといい
たのむでのう、村じゅう一けん一足ずつ
くばってきておくれやのう
という。
おら おばばが あんだで
春になったら はいておくれやのう
そういって くばっておくれやのう
という。

それから
幾日かの間。
ぼくは赤いわらぞうりを
しまのふろしきにつつんで
くばり歩いた。
雪のもかもか
ふる中を
しなしなとした
わらぞうりのつつみをせおって歩くと
ほかほかと
からだじゅうがあったまって
祖母を
小さな祖母を
せおっているような気がした。

近いしんるいへは
その家族の数だけ
くばるようになっていた。
遠く家をはなれた
むすこや孫たちには
荷ふだをつけて
小包にして送った。

家の者には
祖母がじぶんで
一足ずつ
くばってくれた。
父は、
おばばのぞうりは はきぐあいええで
こてらんねえぞ
シンもシノも
おばばのぞうりはえて
でっかくなったで
いまごろ ぞうりだいて
子どものころのこと
おもいだしておるにな
といった。

祖母は
さいごの一足を
カクマキにつつみ
じぶんのために
のこしておいた。

春。
祖母は死んだ。
むすこや孫や
村の人たちが
いそいでかけつけてきた。
なかには
赤いはなおのわらぞうりを
つっかけてきた者もいた。

野辺おくりの日。
この村では
わらぞうりをはくのが
ならわしであった。
じゃんぽん
じゃんぽん
そろいの赤いわらぞうりをはいた
九十七人の行列がつづいた。
火葬場にきて
人びとはみな
赤いわらぞうりをぬいだ。
わらぞうりは
棺のまわりにつまれた。
はだしになった人びとは
ただいつまでも
もえあがる火を
その赤い火を
じっとみつめて立っていた。

高橋忠治
かんじきの歌」所収
1962

One comment on “赤いわらぞうり

  1. 「赤いわらぞうり」は高橋様の許可をいただいた上で掲載しております。
    無断転載はご遠慮ください。

    この詩を読んで興味を持たれた方は是非下記のサイトもチェックして見てください。

    信州児童文学会ホームページ
    (高橋様が運営委員を勤められていた団体。会誌「とうげの旗」を発行中。)

    http://homepage3.nifty.com/tougenohata/

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